ヒサルルクの丘(通称:トロイ遺跡)に行こう①
やっぱ一度はいっときたいよなぁ、というわけで、トルコにあるヒサルルクの丘へ行ってきた。
ここは通常、トロイ遺跡と呼ばれている。「通常」と言ったのは、実はここがトロイである証拠は何も見つかっておらず、シュリーマンがそう言って宣伝し、慣習としてトロイと呼ばれているからである。
このへんの事情は、いい本が何冊も出ているので本で読んだほうが早い。

トロイアの真実: アナトリアの発掘現場からシュリ-マンの実像を踏査する - 大村 幸弘, 大村 次郷

トロイア戦争:歴史・文学・考古学 - エリック・H・クライン, 西村賀子
ヒサルルクの丘へ行くと、入口に「イリオス」「ウィルサ」と書かれた標識が立っているが、これはトロイがホメロスの叙事詩では「イーリアス」と呼ばれていること、ヒッタイトの記録では「ウィルサ」と呼ばれる国家とのやりとりが残されており、ウィルサがギリシャ語に鈍ったものがイリオスで、イーリアスとはヒッタイトの呼び名から来ているのでは? という説から来ている。
ただし、ウィルサが本当にこの場所だったのかどうかは分からない。町の名前の分かる遺物が何も出ていないのだ。
ある程度わかっているのは、アルザワに近い西の方にあったらしいこと、記録に残された王の名などからしてギリシャ系住民が住んでいたらしいことまで。
条件には一致するし、今のところ他に候補は挙げられていないのだが、単に遺跡が見つかっていないだけということもあるため断言することが出来ないのだ。

だが、もしもヒッタイトの言う「ウィルサ」がこの場所だったとしたら、ヒッタイトとトロイアは一時的に宗主国・保護国、または同盟国のような関係だったことになり、トロイア戦争にヒッタイトも少し絡んでいた可能性が出てくる。
確固たる証拠が何もないが、「もしかしたら」と想像力を働かせるといかようにもストーリーを作れるのが、トロイアを神秘的で物語性に富む題材にしている理由なのだと思う。
ただ、中の人は空想物語にはあまり興味がない。
というか、「より現実に近い解釈って何なのか」「事実としてどうだったのか」が知りたい。
なので、よくわかんないから、とりあえず一回現地行って現物見てから考えてみるか! という、いつもの現地特攻である。現物見たことないと、やっぱり解像度は落ちちゃうしね。
というわけで、行き方。
場所としてはトルコの東、マルマラ海に面したあたり。イスタンブールからの往復ツアーもあるが、泊まりで行くならチャナッカレという街を拠点にして動くのが一般的。というか遺跡まで5時間くらいかかるので、日帰りしようとすると滞在時間が数時間、併設されている博物館に寄ることはできなくなるので泊りがオススメ。
とりあえずイスタンブールからチャナッカレに行けば、あとは現地ツアーなりタクシーなりでなんとかなる。イスタンブールからチャナッカレまで、所要時間は4.5時間くらい。途中で瀬戸大橋みたいなデザインの橋を渡るが、これらは日本企業も関わっているもので、耐震構造に優れた作りなのだとか。
ガリポリの戦いで有名なガリポリ半島からマルマラ海を渡り、古い戦車の展示されている通りを抜けて海沿いに木馬が見えたらチャナッカレの街である。
ちなみに、トロイの木馬は2つある。
チャナッカレの街の海沿いにあるのが、かつて映画に使われたというデカいやつ。

後ろはこんな感じですぐに海になっている。
行った日はちょうど暴風の日で、波がザッパァァァァンて打ち付けてくる塩味のするヤバい感じだった…
観光客いない。ていうか気を抜くと飛ばされそうになる。

で、もう一つがトロイ遺跡の入口に立ってるやつ。
こちらはかつて中に入れたらしいが、今は入れなくなっている。

遺跡のチケットを事前に買っておくと入口はQRコードで入れる。
便利な感じになっていた。
おさらいとなるが、この遺跡は最初にシュリーマンによって発掘された。
彼の目的は伝説上のトロイアを発見することであり、ここが本当にトロイアであるかどうかには、おそらくそれほど興味なかった。ここをトロイアにするために、それらしく見える遺物が掘り出せればそれで良かったのである。
シュリーマンは素人で、かなり無茶な発掘をしたとはよく言われる。
立派に見える城壁を掘り出すために、上の層をブチ抜くなども平気でやっている。
その結果がこれ。有名なシュリーマンのトレンチ。
トレンチとは、考古学的な用語としては試し堀りの穴なのだが、シュリーマンのそれはあまりにも巨大であり、現地に立つと「これトレンチっていうより防空壕とか掘ろうとしてねぇ?」って感じであった。というか、トレンチの本来の意味「塹壕」に近いというか…。
これが海側で

反対側にこう続いている。

掘った方向はこれ。

穴についているⅡとかⅥとかの番号は遺跡の層の番号で、シュリーマンが最初にトロイだと思った第Ⅱ層は紀元前2,400-2,200年、立派な城壁を持ち、ホメロスが描いた都市の可能性が高いとされているのがⅥ層が紀元前1700-1200年。つまり、この間の1,000年以上の地層を堀り抜いたのである。
なんか、無茶とかいうレベルではないw
このバカでかい溝を掘るのにわずか数年。ここがトロイだと言うに値する立派な城壁にブチ当たるまでまっすぐに遺丘のど真ん中を貫いてるので、これはアカンわ…そりゃあ後世に素人仕事って言われるよね…と、大いに納得。
なお、遺跡の南の端、第Ⅵ期の城門近くには2018年までドイツ隊の掘っていた跡も残されていたが、ここは現代的な丁寧な発掘跡になっていた。

この遺跡は、多くの層が重なっているのもあるが、今まで見てきた中でもトップレベルに堀り方が雑だなぁと思う場所だった。
というか、発掘のポリシーがわからんのである。ある場所ではやたらと深くまで掘り込まれているし、ある場所は放置。瓦礫が積み上がってる場所もあるし、なんかここ地層ごと全部消えてるんだけどどこに捨てた??? みたいなエリアもあり…。
強いて言うなら、本当に、「時代は統一されていなくてもいいから、立派な城壁や建造物の跡だけ残そうとした」みたいな感じ。
もしもこの場所を最初に発掘したのがシュリーマンで無かったら、もしももう少し近代まで残されて、近代考古学の技術で発掘されていたら…などと、少しくらいは思わずにはいられない。
(ごっそり消えてる土の中に混じってた細かい遺物を全部捨てちゃったのだとすれば、街の名前がわかんないのも、そのせいでは? という気が…。)
つづく。
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まとめ読みはこちら
ここは通常、トロイ遺跡と呼ばれている。「通常」と言ったのは、実はここがトロイである証拠は何も見つかっておらず、シュリーマンがそう言って宣伝し、慣習としてトロイと呼ばれているからである。
このへんの事情は、いい本が何冊も出ているので本で読んだほうが早い。

トロイアの真実: アナトリアの発掘現場からシュリ-マンの実像を踏査する - 大村 幸弘, 大村 次郷

トロイア戦争:歴史・文学・考古学 - エリック・H・クライン, 西村賀子
ヒサルルクの丘へ行くと、入口に「イリオス」「ウィルサ」と書かれた標識が立っているが、これはトロイがホメロスの叙事詩では「イーリアス」と呼ばれていること、ヒッタイトの記録では「ウィルサ」と呼ばれる国家とのやりとりが残されており、ウィルサがギリシャ語に鈍ったものがイリオスで、イーリアスとはヒッタイトの呼び名から来ているのでは? という説から来ている。
ただし、ウィルサが本当にこの場所だったのかどうかは分からない。町の名前の分かる遺物が何も出ていないのだ。
ある程度わかっているのは、アルザワに近い西の方にあったらしいこと、記録に残された王の名などからしてギリシャ系住民が住んでいたらしいことまで。
条件には一致するし、今のところ他に候補は挙げられていないのだが、単に遺跡が見つかっていないだけということもあるため断言することが出来ないのだ。

だが、もしもヒッタイトの言う「ウィルサ」がこの場所だったとしたら、ヒッタイトとトロイアは一時的に宗主国・保護国、または同盟国のような関係だったことになり、トロイア戦争にヒッタイトも少し絡んでいた可能性が出てくる。
確固たる証拠が何もないが、「もしかしたら」と想像力を働かせるといかようにもストーリーを作れるのが、トロイアを神秘的で物語性に富む題材にしている理由なのだと思う。
ただ、中の人は空想物語にはあまり興味がない。
というか、「より現実に近い解釈って何なのか」「事実としてどうだったのか」が知りたい。
なので、よくわかんないから、とりあえず一回現地行って現物見てから考えてみるか! という、いつもの現地特攻である。現物見たことないと、やっぱり解像度は落ちちゃうしね。
というわけで、行き方。
場所としてはトルコの東、マルマラ海に面したあたり。イスタンブールからの往復ツアーもあるが、泊まりで行くならチャナッカレという街を拠点にして動くのが一般的。というか遺跡まで5時間くらいかかるので、日帰りしようとすると滞在時間が数時間、併設されている博物館に寄ることはできなくなるので泊りがオススメ。
とりあえずイスタンブールからチャナッカレに行けば、あとは現地ツアーなりタクシーなりでなんとかなる。イスタンブールからチャナッカレまで、所要時間は4.5時間くらい。途中で瀬戸大橋みたいなデザインの橋を渡るが、これらは日本企業も関わっているもので、耐震構造に優れた作りなのだとか。
ガリポリの戦いで有名なガリポリ半島からマルマラ海を渡り、古い戦車の展示されている通りを抜けて海沿いに木馬が見えたらチャナッカレの街である。
ちなみに、トロイの木馬は2つある。
チャナッカレの街の海沿いにあるのが、かつて映画に使われたというデカいやつ。

後ろはこんな感じですぐに海になっている。
行った日はちょうど暴風の日で、波がザッパァァァァンて打ち付けてくる塩味のするヤバい感じだった…
観光客いない。ていうか気を抜くと飛ばされそうになる。

で、もう一つがトロイ遺跡の入口に立ってるやつ。
こちらはかつて中に入れたらしいが、今は入れなくなっている。

遺跡のチケットを事前に買っておくと入口はQRコードで入れる。
便利な感じになっていた。
おさらいとなるが、この遺跡は最初にシュリーマンによって発掘された。
彼の目的は伝説上のトロイアを発見することであり、ここが本当にトロイアであるかどうかには、おそらくそれほど興味なかった。ここをトロイアにするために、それらしく見える遺物が掘り出せればそれで良かったのである。
シュリーマンは素人で、かなり無茶な発掘をしたとはよく言われる。
立派に見える城壁を掘り出すために、上の層をブチ抜くなども平気でやっている。
その結果がこれ。有名なシュリーマンのトレンチ。
トレンチとは、考古学的な用語としては試し堀りの穴なのだが、シュリーマンのそれはあまりにも巨大であり、現地に立つと「これトレンチっていうより防空壕とか掘ろうとしてねぇ?」って感じであった。というか、トレンチの本来の意味「塹壕」に近いというか…。
これが海側で

反対側にこう続いている。

掘った方向はこれ。

穴についているⅡとかⅥとかの番号は遺跡の層の番号で、シュリーマンが最初にトロイだと思った第Ⅱ層は紀元前2,400-2,200年、立派な城壁を持ち、ホメロスが描いた都市の可能性が高いとされているのがⅥ層が紀元前1700-1200年。つまり、この間の1,000年以上の地層を堀り抜いたのである。
なんか、無茶とかいうレベルではないw
このバカでかい溝を掘るのにわずか数年。ここがトロイだと言うに値する立派な城壁にブチ当たるまでまっすぐに遺丘のど真ん中を貫いてるので、これはアカンわ…そりゃあ後世に素人仕事って言われるよね…と、大いに納得。
なお、遺跡の南の端、第Ⅵ期の城門近くには2018年までドイツ隊の掘っていた跡も残されていたが、ここは現代的な丁寧な発掘跡になっていた。

この遺跡は、多くの層が重なっているのもあるが、今まで見てきた中でもトップレベルに堀り方が雑だなぁと思う場所だった。
というか、発掘のポリシーがわからんのである。ある場所ではやたらと深くまで掘り込まれているし、ある場所は放置。瓦礫が積み上がってる場所もあるし、なんかここ地層ごと全部消えてるんだけどどこに捨てた??? みたいなエリアもあり…。
強いて言うなら、本当に、「時代は統一されていなくてもいいから、立派な城壁や建造物の跡だけ残そうとした」みたいな感じ。
もしもこの場所を最初に発掘したのがシュリーマンで無かったら、もしももう少し近代まで残されて、近代考古学の技術で発掘されていたら…などと、少しくらいは思わずにはいられない。
(ごっそり消えてる土の中に混じってた細かい遺物を全部捨てちゃったのだとすれば、街の名前がわかんないのも、そのせいでは? という気が…。)
つづく。
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まとめ読みはこちら