ヒサルルクの丘(通称:トロイ遺跡)に行こう②
というわけで、遺跡の入口から順番に周っていこう。
前の記事に書いた通り、この遺跡は天然の岩盤の上に最古のⅠ層(古代のアナトリア文明)があり、そこからⅨ層(ローマ)まで時代順に層が重なっている。シュリーマンが乱暴に層を引っ剥がしてしまったせいで見えている層はまちまちだが、どの時代も街の形は丸くなっているため、その丸い城壁に沿うようにして遊歩道が続いている。

今回は矢印の向きに周った。
入口は南側で、右回りにⅥ層の城壁から行くルート。まっすぐ第Ⅱ層に行くルート、左回りにⅨ層の劇場から行くルートがある。なお、北東の城壁に行くには、入口の横に分岐している散策路から入る必要がある。

ここでおさらい。
ヒサルルクの丘の遺跡は全部でⅨ層あり、ホメロスの叙事詩に描写されているような立派な城壁を持つ都市は第Ⅵ層、中期青銅器時代(紀元前1700-1200年頃)、大火災によって崩壊しているのは、そのすぐ上の第Ⅶ層(紀元前1230~1180年頃)である。第Ⅶ層は、崩壊後に暗黒時代に突入し、何世紀かの空白を挟む。その後、この場所が再び発展するのは第Ⅷ層、前700年のヘレニズム時代に入ってからである。
つまりギリシャ文化が発展しはじめた頃には、既に「イーリアス」の世界は神話になっていた。
紀元前1200年頃といえば、ヒッタイト帝国が滅びた時期でもある。この頃のアナトリア・東地中海では何かが起きており、気候変動もしくは天災などによって大量の移民が発生した可能性がある。エジプトに押し寄せた難民、いわゆる「海の民」である。ただし、都市の歴史を一度終わらせた大火災が戦闘によるものかどうかは明らかでなく、地震という説もある。
それに対し、シュリーマンが黄金を発見し、トロイだと思ったのは第Ⅱ層(紀元前2400年-2200年頃)。
この層はトロイの時代と考えるには古すぎるが、第Ⅵ層と同じく立派な城壁を持ち、大規模な火災を受けた痕跡がある。ちなみに第Ⅱ層は堆積物が多く2mほどもあるが、残存部分から見るに、建物が焼成レンガで出来ていたため、そのレンガの瓦礫が丸ごと堆積したせいと思われる。
いわゆる「プリアモスの宝」と言われている黄金遺物が見つかったのは、この層である。
第Ⅵ層以降は、遺丘の側面にしか残されていない。暗黒時代にいちど居住が途絶えたあと、ギリシャ・ローマ時代に人が再度住み着くようになり、第Ⅷ層、第Ⅸ層が作られる際に、丘の表面を平らにして神殿などを築くために削られてしまったからだ。女神アテナの神殿のある場所などは、そこで第Ⅵ層が途切れているのがわかりやすい地点。
おそらくシュリーマンはそれもあって、遺丘の側面からトレンチをぶち抜く荒業を使ったのだろう。…まあ深い地層に早く到達するにはそれで正解なんですけど。シュリーマンが第Ⅱ層をトロイだと思ってしまったせいで、被っていた第Ⅵ、Ⅶ層のトロイの時代に該当する層をだいぶ捨てちゃってるという渋い結果である。
もういちど遺跡の平面図を見てもらいたいのだが、第Ⅰ層、第Ⅱ層が見えている場所は、当然ながら、その上にあった第Ⅲ層以降が引っ剥がされて捨てられた範囲なのである。…その捨てた土砂、どこにいったんだろうね。もいっかい調べたほうがいいと思うよマジで…。
というわけで、前置きが長くなったが実際の遺跡の様子である。
まず入口入って右側、こちら残りの良い第Ⅵ層の城壁。とても立派。石積みも整然として、この時代の街が栄えていたことが分かると思う。

ここから第Ⅵ層メガロン方面へ。途中にデカい壺の破片がそのまま埋もれていたりもする。

メガロンを抜けると遺跡のいちばん高い場所、展望台のようなところに出る。
奥の方にも通路が見えているが、これが入口の脇に別ルートで続いていると書いた部分。遺跡の北東であり、城壁の残りがいちばん良い場所でもある。

その別ルートのほうに降りて展望台方向に見上げたところがこちら。
近くには第Ⅵ層・第Ⅶ層共通で使われていた井戸の跡がある。かなり急な階段がつけられており、上の方に歩哨などの立つ展望台があったという。

この高い場所から見た現代の海はこんな感じ。海が遠いように思えるが、これは川の運んだ堆積物でだんだん浅瀬が埋まっていった結果である。

で、この場所に立ってグーグルアースと地形見比べてて、ようやく腑に落ちたことがある。
このヒサルルクの丘の遺跡は、時代ごとに周辺の地形が変化するため、港の位置が違っている。
現在、近くを流れている主要な川はこの二本で、このうち南側を流れる川のほうが大きい。そして、この川が最も地形の変動に関わっている。

遺跡の途中にある地図の左上がわかりやすい。黄緑色の部分は少しずつ土が堆積していったところ。
本来の陸地は南の橋の半島みたいになってる盛り上がった場所だけで、ヒサルルクの丘とその半島の間を、長年の間に埋めていったのが現在の姿なのだ。


Ⅱ期はスロープのある立派な城門が南西方向についているが、おそらく当時の海岸線に合わせた入口で、スローブは舟から荷物を下ろすとか、船を直接つけるためのものだったかもしれない。
Ⅵ期になると南側に門がついていて、港が少し離れた場所にあってそこから回り込んだのか、陸路を重視していたんだろうなという感じ。地形の変化によって街の基本デザインが変わっているのだ。
そして、最初にここに街が作られた理由もなんとなく見えた気がした。
街が作られた当時のヒサルルクの丘は、海に面した半島で陸路からは攻め込みにくいポジションでありながら、川が近くにあって淡水の確保にも困らない、古代世界的には繁栄を約束されたようなベスポジだったのだ。少なくとも第Ⅱ層の時代まではそうだった。
それが第Ⅵ層でやたらがっつりした城壁が作られているのは、その時代までには川のせいで西と南の海が埋まって、攻め込みにくい半島という地の利が薄れていたからではないだろうか。
というわけで話を戻そう。
メガロンを過ぎて少し歩くと、天幕に覆われた第Ⅱ層ゾーンにたどり着く。ここは焼け焦げた火災の跡がはっきり見える場所だというのでしっかり保存されているらしい。レンガが赤く焼けているのが分かる。

ここを過ぎていくと南西の第Ⅱ層スロープ。シュリーマンが「プリアモスの宝」を発見したと主張したのは、このスロープの右側である。
ただしこの宝は、実際にはプリアモスがいたとされる時代からは古く、複数の場所で発見されたものを一つにまとめて発表しただけと言われている。
本当の発見場所は、今となっては分からない。


ここを過ぎると、再び第Ⅵ層の城壁。5mもある立派なもので、よっぽど敵に備えなければならない何かがあったのだろう。
まあ時代的に南のほうにはシェハ川国やアルザワ(の一勢力とされるハパラ)があったはずなので、街の南の防御を厚くしてるっていうのはそういうことなんだろうな…とは察するところがある。
イーリアスで攻めてくるギリシャ勢は西の海から来ただろうが、実際にはこの都市の恒久的な仮想敵は東と南にいたはずだ。

参考までに、この遺跡の位置と周辺勢力の図がこちら。
ウィルシャと書かれているのが現在トロイ遺跡と呼ばれているところ。ヒッタイトとの間には幾つかの小勢力が挟まっているが、それらの勢力とは、必ずしも友好関係にあったわけではないと思われる。
分厚い城壁を築くからには、それだけ危機感を持って都市の防衛を重視していたはずなので、関係性は推して図るべしである。ただし、実際に戦争をしたかどうかまでは分からない。

この立派な城壁を過ぎると、第Ⅸ期の劇場跡。見慣れた時代の遺物が転がっている。

遺跡をぐるりと一周して見られるものはこんな感じ。
平面図を持っていって、今どこにいるのか確かめながら歩くと、構造がすっと頭に入ってよい。あとやっぱこの手の遺跡はガイドさんの説明とか要らないですね。行きつ戻りつして考えながら歩くのがいいっす。
余談ですが、この遺跡、めっちゃリスいましたw
イチジクやオリーブの木が生えてたり、ポピー咲いてたり、自然も豊か。ゆっくりピクニックしにいくにもいいかもしれない。

つづく。
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まとめ読みはこちら
前の記事に書いた通り、この遺跡は天然の岩盤の上に最古のⅠ層(古代のアナトリア文明)があり、そこからⅨ層(ローマ)まで時代順に層が重なっている。シュリーマンが乱暴に層を引っ剥がしてしまったせいで見えている層はまちまちだが、どの時代も街の形は丸くなっているため、その丸い城壁に沿うようにして遊歩道が続いている。

今回は矢印の向きに周った。
入口は南側で、右回りにⅥ層の城壁から行くルート。まっすぐ第Ⅱ層に行くルート、左回りにⅨ層の劇場から行くルートがある。なお、北東の城壁に行くには、入口の横に分岐している散策路から入る必要がある。

ここでおさらい。
ヒサルルクの丘の遺跡は全部でⅨ層あり、ホメロスの叙事詩に描写されているような立派な城壁を持つ都市は第Ⅵ層、中期青銅器時代(紀元前1700-1200年頃)、大火災によって崩壊しているのは、そのすぐ上の第Ⅶ層(紀元前1230~1180年頃)である。第Ⅶ層は、崩壊後に暗黒時代に突入し、何世紀かの空白を挟む。その後、この場所が再び発展するのは第Ⅷ層、前700年のヘレニズム時代に入ってからである。
つまりギリシャ文化が発展しはじめた頃には、既に「イーリアス」の世界は神話になっていた。
紀元前1200年頃といえば、ヒッタイト帝国が滅びた時期でもある。この頃のアナトリア・東地中海では何かが起きており、気候変動もしくは天災などによって大量の移民が発生した可能性がある。エジプトに押し寄せた難民、いわゆる「海の民」である。ただし、都市の歴史を一度終わらせた大火災が戦闘によるものかどうかは明らかでなく、地震という説もある。
それに対し、シュリーマンが黄金を発見し、トロイだと思ったのは第Ⅱ層(紀元前2400年-2200年頃)。
この層はトロイの時代と考えるには古すぎるが、第Ⅵ層と同じく立派な城壁を持ち、大規模な火災を受けた痕跡がある。ちなみに第Ⅱ層は堆積物が多く2mほどもあるが、残存部分から見るに、建物が焼成レンガで出来ていたため、そのレンガの瓦礫が丸ごと堆積したせいと思われる。
いわゆる「プリアモスの宝」と言われている黄金遺物が見つかったのは、この層である。
第Ⅵ層以降は、遺丘の側面にしか残されていない。暗黒時代にいちど居住が途絶えたあと、ギリシャ・ローマ時代に人が再度住み着くようになり、第Ⅷ層、第Ⅸ層が作られる際に、丘の表面を平らにして神殿などを築くために削られてしまったからだ。女神アテナの神殿のある場所などは、そこで第Ⅵ層が途切れているのがわかりやすい地点。
おそらくシュリーマンはそれもあって、遺丘の側面からトレンチをぶち抜く荒業を使ったのだろう。…まあ深い地層に早く到達するにはそれで正解なんですけど。シュリーマンが第Ⅱ層をトロイだと思ってしまったせいで、被っていた第Ⅵ、Ⅶ層のトロイの時代に該当する層をだいぶ捨てちゃってるという渋い結果である。
もういちど遺跡の平面図を見てもらいたいのだが、第Ⅰ層、第Ⅱ層が見えている場所は、当然ながら、その上にあった第Ⅲ層以降が引っ剥がされて捨てられた範囲なのである。…その捨てた土砂、どこにいったんだろうね。もいっかい調べたほうがいいと思うよマジで…。
というわけで、前置きが長くなったが実際の遺跡の様子である。
まず入口入って右側、こちら残りの良い第Ⅵ層の城壁。とても立派。石積みも整然として、この時代の街が栄えていたことが分かると思う。

ここから第Ⅵ層メガロン方面へ。途中にデカい壺の破片がそのまま埋もれていたりもする。

メガロンを抜けると遺跡のいちばん高い場所、展望台のようなところに出る。
奥の方にも通路が見えているが、これが入口の脇に別ルートで続いていると書いた部分。遺跡の北東であり、城壁の残りがいちばん良い場所でもある。

その別ルートのほうに降りて展望台方向に見上げたところがこちら。
近くには第Ⅵ層・第Ⅶ層共通で使われていた井戸の跡がある。かなり急な階段がつけられており、上の方に歩哨などの立つ展望台があったという。

この高い場所から見た現代の海はこんな感じ。海が遠いように思えるが、これは川の運んだ堆積物でだんだん浅瀬が埋まっていった結果である。

で、この場所に立ってグーグルアースと地形見比べてて、ようやく腑に落ちたことがある。
このヒサルルクの丘の遺跡は、時代ごとに周辺の地形が変化するため、港の位置が違っている。
現在、近くを流れている主要な川はこの二本で、このうち南側を流れる川のほうが大きい。そして、この川が最も地形の変動に関わっている。

遺跡の途中にある地図の左上がわかりやすい。黄緑色の部分は少しずつ土が堆積していったところ。
本来の陸地は南の橋の半島みたいになってる盛り上がった場所だけで、ヒサルルクの丘とその半島の間を、長年の間に埋めていったのが現在の姿なのだ。


Ⅱ期はスロープのある立派な城門が南西方向についているが、おそらく当時の海岸線に合わせた入口で、スローブは舟から荷物を下ろすとか、船を直接つけるためのものだったかもしれない。
Ⅵ期になると南側に門がついていて、港が少し離れた場所にあってそこから回り込んだのか、陸路を重視していたんだろうなという感じ。地形の変化によって街の基本デザインが変わっているのだ。
そして、最初にここに街が作られた理由もなんとなく見えた気がした。
街が作られた当時のヒサルルクの丘は、海に面した半島で陸路からは攻め込みにくいポジションでありながら、川が近くにあって淡水の確保にも困らない、古代世界的には繁栄を約束されたようなベスポジだったのだ。少なくとも第Ⅱ層の時代まではそうだった。
それが第Ⅵ層でやたらがっつりした城壁が作られているのは、その時代までには川のせいで西と南の海が埋まって、攻め込みにくい半島という地の利が薄れていたからではないだろうか。
というわけで話を戻そう。
メガロンを過ぎて少し歩くと、天幕に覆われた第Ⅱ層ゾーンにたどり着く。ここは焼け焦げた火災の跡がはっきり見える場所だというのでしっかり保存されているらしい。レンガが赤く焼けているのが分かる。

ここを過ぎていくと南西の第Ⅱ層スロープ。シュリーマンが「プリアモスの宝」を発見したと主張したのは、このスロープの右側である。
ただしこの宝は、実際にはプリアモスがいたとされる時代からは古く、複数の場所で発見されたものを一つにまとめて発表しただけと言われている。
本当の発見場所は、今となっては分からない。


ここを過ぎると、再び第Ⅵ層の城壁。5mもある立派なもので、よっぽど敵に備えなければならない何かがあったのだろう。
まあ時代的に南のほうにはシェハ川国やアルザワ(の一勢力とされるハパラ)があったはずなので、街の南の防御を厚くしてるっていうのはそういうことなんだろうな…とは察するところがある。
イーリアスで攻めてくるギリシャ勢は西の海から来ただろうが、実際にはこの都市の恒久的な仮想敵は東と南にいたはずだ。

参考までに、この遺跡の位置と周辺勢力の図がこちら。
ウィルシャと書かれているのが現在トロイ遺跡と呼ばれているところ。ヒッタイトとの間には幾つかの小勢力が挟まっているが、それらの勢力とは、必ずしも友好関係にあったわけではないと思われる。
分厚い城壁を築くからには、それだけ危機感を持って都市の防衛を重視していたはずなので、関係性は推して図るべしである。ただし、実際に戦争をしたかどうかまでは分からない。

この立派な城壁を過ぎると、第Ⅸ期の劇場跡。見慣れた時代の遺物が転がっている。

遺跡をぐるりと一周して見られるものはこんな感じ。
平面図を持っていって、今どこにいるのか確かめながら歩くと、構造がすっと頭に入ってよい。あとやっぱこの手の遺跡はガイドさんの説明とか要らないですね。行きつ戻りつして考えながら歩くのがいいっす。
余談ですが、この遺跡、めっちゃリスいましたw
イチジクやオリーブの木が生えてたり、ポピー咲いてたり、自然も豊か。ゆっくりピクニックしにいくにもいいかもしれない。

つづく。
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まとめ読みはこちら