ヒサルルクの丘(通称:トロイ遺跡)に行こう③
遺跡本体を見たら、次は近くにあるトロイ博物館へGO。ツアーだとさらっと飛ばされることもある博物館だけど、ここがなかなか見どころがあって、気がついたら2時間半ほど経過していた。その間にホテルからの送迎のドライバーさんが寝ちゃってたw(チップ多めに払いました…)
なのでほんの1時間くらいで飛ばすのは勿体ない。
もし時間が無いなら絶対見たほうがいいのは、入口から入ってすぐの地下階にある黄金の装身具。これはトロイの最下層に近い紀元前3.000年頃のものとされる。

シュリーマンが「プリアモスの宝」と呼んで世間に発表したものが、実際には第Ⅱ層から出たものだったことは先に書いたが、どうもその時代のトロイ遺跡とその周辺は金が豊富だったらしい。
というのも、周辺の遺跡からも、そこそこの数の金製品が出ているからだ。金の出どころは、すぐ近くである。金鉱、銅鉱、さらに、貴重な錫も算出している。同石器時代から青銅器時代を通じて、この地方が栄えた理由はこれで分かる。海を超えてギリシャ系住民が移住or接触してきたとしても不思議はない。

しかし、物質に恵まれてはいても、覇権国家にはなれなかった。実際に同時代に覇権を握っていたのはアナトリア中央を本拠地とするヒッタイト。人口規模が足りなかったんじゃないかと思う。
ヒッタイトの記録では、ギリシャ系住民と思われるアッヒヤワ(アカイア人?)という言葉が記録に登場する。アッヒヤワはアナトリア西岸、おそらくトロイ遺跡を含む地域に何度か攻め込んできていたようで、これがトロイア戦争の記憶の一端となった可能性はある。ただしアッヒヤワが本当にアカイア人のことでいいのかは諸説ある。
紀元前1280年頃、都市国家ウィルサの王アラクサンドゥはヒッタイトの守護下に入り、ムワタリ2世との間で保護条約を結ぶ。先の記事に書いたとおり、ウィルサはギリシャ語でイルサ、ウィリオス、イーリアスと変化した可能性のある都市名である。アラクサンドゥという名前はヒッタイト側の記録なので、おそらく元はギリシャ語でアレクサンドロス。もしウィルサ=イーリアス=トロイなら、トロイの王名だった可能性がある名前である。
ただし現在トロイと呼ばれている場所がウィルサまたはウィルサと呼ばれていた証拠がないため、これはあくまで「もしかしたら」。
ここでも不確かな要素がでてきてしまう。
で、ムワタリとアラクサンドゥの条約が、このトロイ博物館の1階(入口から入るとスロープを昇った1つ上のフロア)にある。
これも絶対見逃せない遺物である。

実物を見ると分かるのだが、この粘土板、右端のほうに見切れている文字は右側面まで回り込むようにしてビッシリと書かれている。
なんか…スペースとるのにちょっと失敗したな…? と思ってしまったw
なお、ヒッタイトの文書で「ウィルサ」という都市に言及したものは、実は幾つも存在する。しかも、ウィルサで戦争が起きた、あるいはヒッタイトがウィルサの戦闘に介入した、という記述すら、一つではなく複数存在する。それらの戦いのうちのどれかがトロイ戦争、あるいは後世の伝承に影響を与えた可能性はあるが、数が多すぎて特定できない。
つまりは史料多すぎて逆に分からなくなっているパターンである。
このへんの事情は以下の本に詳しく書かれている。

トロイア戦争:歴史・文学・考古学 - エリック・H・クライン, 西村賀子
トロイ博物館では、全ての「もしかしたら~かもしれない」を確定事項に変換しており、現在のトロイ遺跡=ウィルサとして話を進めているが、これは諸説あるうちの有力候補の一つに過ぎないことは心に留めておく必要がある。
(ついでに言うと、「海の民」によって多くの都市国家が崩壊したというのも少し前の説であり、最近はそれぞれの都市は別々の要因で崩壊してることが分かってきている)
粘土版と同じ1階部分にはトロイ遺跡で出た遺物が多数展示されているので、時代ごとに見ていくとかなり時間を取られる。

逆に二階部分はヘレニズムやローマが中心なので、個人的にあんまり面白くはなかった。付近の遺跡から出てきたものなどをまとめて展示しているところ。
時間があれば三階は少し寄ってみてもいいかも。トロイ遺跡の歴代発掘者たちの歴史が展示されている。
まずはシュリーマンとカルバート。最初の発掘者たち。


次にデルプフェルト。

ブレーゲン。

そして、無くなるまでこの場所がトロイであることを確固たるものに出来る証拠を探し求めていたコルフマン。

トロイ関連の資料を探していると必ず目にする名前である。彼らの努力と成果が今の研究に繋がっている。
遺跡の発掘開始から既に150年が経過した。これまでの経過もまた、一つの歴史なのである。
なお、コルフマンの研究では、リモートセンシングを使って遺跡の南側にかなり広大な市街地が広がっていたことが明らかにされている。
トロイ遺跡の丘の部分は、城や神殿など街の中心を成す特殊な施設の集まった場所であり、本体というべき住民たちの居住区はその周辺に、つまり現在は畑になっている場所の下に広がっていた。
おそらくトロイ遺跡Ⅵ期が最も栄えた時代で、街も最大だっただろう。それが地震で崩壊し、建て直されたのがⅦ期の最初の部分であり、Ⅶ期後半になると集落が衰退して住民が入れ替わっている(遺物の文化が変わる)。そのため、トロイア戦争に匹敵する大きな戦いが発生したならⅥ期とⅦ期の間ではないかとされている。
博物館の最上階はテラスになっており、遺跡周辺を見渡すことが出来るが、そこから見える風景は、かつては都市国家の周囲を囲む広大な市街地+耕作地だったはずなのだ。
畑なので掘るのは難しそうだけど、もしかしたら川の堆積物の中に混じって、何か遺物は出てくるのかもしれない。
つづく
=======
まとめ読みはこちら
なのでほんの1時間くらいで飛ばすのは勿体ない。
もし時間が無いなら絶対見たほうがいいのは、入口から入ってすぐの地下階にある黄金の装身具。これはトロイの最下層に近い紀元前3.000年頃のものとされる。

シュリーマンが「プリアモスの宝」と呼んで世間に発表したものが、実際には第Ⅱ層から出たものだったことは先に書いたが、どうもその時代のトロイ遺跡とその周辺は金が豊富だったらしい。
というのも、周辺の遺跡からも、そこそこの数の金製品が出ているからだ。金の出どころは、すぐ近くである。金鉱、銅鉱、さらに、貴重な錫も算出している。同石器時代から青銅器時代を通じて、この地方が栄えた理由はこれで分かる。海を超えてギリシャ系住民が移住or接触してきたとしても不思議はない。

しかし、物質に恵まれてはいても、覇権国家にはなれなかった。実際に同時代に覇権を握っていたのはアナトリア中央を本拠地とするヒッタイト。人口規模が足りなかったんじゃないかと思う。
ヒッタイトの記録では、ギリシャ系住民と思われるアッヒヤワ(アカイア人?)という言葉が記録に登場する。アッヒヤワはアナトリア西岸、おそらくトロイ遺跡を含む地域に何度か攻め込んできていたようで、これがトロイア戦争の記憶の一端となった可能性はある。ただしアッヒヤワが本当にアカイア人のことでいいのかは諸説ある。
紀元前1280年頃、都市国家ウィルサの王アラクサンドゥはヒッタイトの守護下に入り、ムワタリ2世との間で保護条約を結ぶ。先の記事に書いたとおり、ウィルサはギリシャ語でイルサ、ウィリオス、イーリアスと変化した可能性のある都市名である。アラクサンドゥという名前はヒッタイト側の記録なので、おそらく元はギリシャ語でアレクサンドロス。もしウィルサ=イーリアス=トロイなら、トロイの王名だった可能性がある名前である。
ただし現在トロイと呼ばれている場所がウィルサまたはウィルサと呼ばれていた証拠がないため、これはあくまで「もしかしたら」。
ここでも不確かな要素がでてきてしまう。
で、ムワタリとアラクサンドゥの条約が、このトロイ博物館の1階(入口から入るとスロープを昇った1つ上のフロア)にある。
これも絶対見逃せない遺物である。

実物を見ると分かるのだが、この粘土板、右端のほうに見切れている文字は右側面まで回り込むようにしてビッシリと書かれている。
なんか…スペースとるのにちょっと失敗したな…? と思ってしまったw
なお、ヒッタイトの文書で「ウィルサ」という都市に言及したものは、実は幾つも存在する。しかも、ウィルサで戦争が起きた、あるいはヒッタイトがウィルサの戦闘に介入した、という記述すら、一つではなく複数存在する。それらの戦いのうちのどれかがトロイ戦争、あるいは後世の伝承に影響を与えた可能性はあるが、数が多すぎて特定できない。
つまりは史料多すぎて逆に分からなくなっているパターンである。
このへんの事情は以下の本に詳しく書かれている。

トロイア戦争:歴史・文学・考古学 - エリック・H・クライン, 西村賀子
トロイ博物館では、全ての「もしかしたら~かもしれない」を確定事項に変換しており、現在のトロイ遺跡=ウィルサとして話を進めているが、これは諸説あるうちの有力候補の一つに過ぎないことは心に留めておく必要がある。
(ついでに言うと、「海の民」によって多くの都市国家が崩壊したというのも少し前の説であり、最近はそれぞれの都市は別々の要因で崩壊してることが分かってきている)
粘土版と同じ1階部分にはトロイ遺跡で出た遺物が多数展示されているので、時代ごとに見ていくとかなり時間を取られる。

逆に二階部分はヘレニズムやローマが中心なので、個人的にあんまり面白くはなかった。付近の遺跡から出てきたものなどをまとめて展示しているところ。
時間があれば三階は少し寄ってみてもいいかも。トロイ遺跡の歴代発掘者たちの歴史が展示されている。
まずはシュリーマンとカルバート。最初の発掘者たち。


次にデルプフェルト。

ブレーゲン。

そして、無くなるまでこの場所がトロイであることを確固たるものに出来る証拠を探し求めていたコルフマン。

トロイ関連の資料を探していると必ず目にする名前である。彼らの努力と成果が今の研究に繋がっている。
遺跡の発掘開始から既に150年が経過した。これまでの経過もまた、一つの歴史なのである。
なお、コルフマンの研究では、リモートセンシングを使って遺跡の南側にかなり広大な市街地が広がっていたことが明らかにされている。
トロイ遺跡の丘の部分は、城や神殿など街の中心を成す特殊な施設の集まった場所であり、本体というべき住民たちの居住区はその周辺に、つまり現在は畑になっている場所の下に広がっていた。
おそらくトロイ遺跡Ⅵ期が最も栄えた時代で、街も最大だっただろう。それが地震で崩壊し、建て直されたのがⅦ期の最初の部分であり、Ⅶ期後半になると集落が衰退して住民が入れ替わっている(遺物の文化が変わる)。そのため、トロイア戦争に匹敵する大きな戦いが発生したならⅥ期とⅦ期の間ではないかとされている。
博物館の最上階はテラスになっており、遺跡周辺を見渡すことが出来るが、そこから見える風景は、かつては都市国家の周囲を囲む広大な市街地+耕作地だったはずなのだ。
畑なので掘るのは難しそうだけど、もしかしたら川の堆積物の中に混じって、何か遺物は出てくるのかもしれない。
つづく
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