トロイ関連の遺物を見に行こう(イスタンブール考古学博物館)
トロイ遺跡からイスタンブールに引き返したら、イスタンブールの考古学博物館へGO。
この巨大な博物館、長年かけて改装中で現在ほとんどのエリアが改装中のままなのだが、トロイ遺物のある2Fエリアは改装が完了している。前回来た時は雑多な倉庫みたいになってて、窓開けて換気してたのが、なんとちゃんと説明ついてて空調もある近代的な博物館に進化していた…!

行った時点で入れた場所は、この図の⑥の部分の赤枠をつけた部分のみ。前回エジプト遺物を見た②や、パルミラ遺物のあった⑦も入れない。
ちょっとしょんぼり。

⑥のトイレのある場所はトイレだけ入れて、残りはこれ。
なんかほんと「今直してる!」って感じの雰囲気。いつか完全体になった姿も見てみたいが、いつになることか。

で、トロイコーナーだが、何といっても見どころは部屋のど真ん中を天井までぶち抜くこのウォール。見た目はただの壁。だがしかし、よく見て欲しい…これ、トロイ遺跡の第0層からⅨ層までの深さを実物大で表現しているシロモノなのだ。
しっかりした石組みの城壁がⅡ層とⅥ層に集中していることも分かる。大きなハコモノならではの仕掛け。あと、深さからしてシュリーマンめっちゃ掘ったなオイ! っていうのも分かる(笑

それぞれの層についての代表的な遺物展示もある。これは視覚的にわかりやすいし面白い。

この壁の裏側に、各時代の遺物と時代の特徴について書かれたパネル展示がある。
第0層からⅢ層まではなんとなく似た感じの原始的な文化、Ⅳ層とⅤ層はアナトリア中央部からの影響が見られる文化の発展期、Ⅵ層はクレタ島やミケーネ文明との繋がりの感じられる土器が多く、Ⅶ層終盤で崩壊して居住が数百年途絶える「暗黒時代」へ。それ以降は普通のギリシャ・ローマ文化へ続く。
ここはトロイ博物館とよく似た内容の展示なので紹介は飛ばす。
ひとつ面白かったのが、トロイ出土の黄金遺物がいま世界のどこにあるのか、という展示。
よく知られているとおり、多くはドイツのベルリンにある。シュリーマンが寄贈したからである。
で、第二次世界大戦でその一部をロシアがパクったので、さらに一部は現在のロシアにある。
あとは嫁の故郷のギリシャや、イギリスなど。
下の旗の「0」がトロイ遺跡のある場所で、そこから世界への拡散と返還運動についての展示がある。

実はドイツに行った時にベルリンの博物館で「ロシアにプリアモスの財宝とられたんだけど💢」っていう怒りの展示を見ているので、これはちょっと笑ってしまった。トルコはドイツに奪われたと言い、ドイツはロシアに奪われたと言う。大変ね…という感じ。
ただ、さすがトルコさんは”本場”だけあって、その後の発掘で発見された黄金製品も豊富に持ってはいる。なので展示品に金はそれなりに入っている。「プリアモスの財宝」のようなカッコいい名前をつけられてストーリーが付与されていないから目立たないだけだろうなと思う。
その点、シュリーマンは、史実と異なるストーリーを付与したとはいえ、うまく耳目を集めることには成功した…と言っていいのだろう。
さて、今回トロイ遺跡と関連遺物を見て回ったのは、「果たしてヒサルルクの丘は本当にトロイなのか」という多くの考古学者の持つ命題に、自分なりのスタンス見つけるためだった。
といっても、実際のところはわからないので、答えを出すというよりも「そうだと信じられるか」という話になる。
このあとアナトリア中央部のヒッタイト時代の遺跡も巡るのだが、結論からいくと、自分の感覚では「ヒサルルクはウィルサだと思えない」だった。
ヒッタイト帝国が「ウィルサ」という街に言及した記録はそれなりの数が存在する。この「ウィルサ」が「イリオス」へ転嫁して「イーリアス=トロイ」になった、とする説を取るならば、ヒッタイトの言う「ウィルサ」の街はヒサルルクではない気がする。理由は、遺物の中にヒッタイトの影響の見えるのものがほぼ無いからである。
第Ⅵ層やⅦ層の遺物を眺めていても、その遺物が作られた時代にヒッタイトとやりとりしていたイメージが出てこなかった。
頻繁にやりとりしていた、ヒッタイトに認識されていた勢力であるならば、もっとヒッタイト関連や、中央アナトリアからの影響を受けた遺物があってもいい。だが、遺物の中に見えた影響はミケーネ文化などギリシャ系の影響ばかりである。
そして、ヒサルルク=ウィルサの街 という概念をいったん消してヒッタイト側の資料だけから「ウィルサ」という街の位置をイメージした場合、なんとなく浮かんできたのは、エーゲ海に面したもっと南の地方だった。ていうか、ヒサルルクはヒッタトの首都・ハットゥシャから見た場合にあまりにも辺鄙過ぎるように感じて、わざわざ政治に介入するほどの地政学的な利点が見えなかったのだ。
そして、ヒッタイトの記録には「ウィルサ」の他に「タルイサ」という都市も言及されており、それぞれが「イリオス」「トロイア」に比されているわけだが、呼び名が2つあるなら、何か理由があるはずなんだよ。町の中心が2つあって、並んだ丘それぞれに町の中心があるとか、昔の町と今の町が少しズレて作られててそれぞれに呼び名つけたとか。別々の言語で町の名前を呼んだもの、とか。
別々の言語というのは、たとえば、エジプトの主要都市にエジプト語とギリシャ語の呼び名がついているような場合だ。これは2つの文化圏が重なり合い、両方の住民がいる場合によくあるパターン。どちらの理由にしても、ヒサルルクには該当しない。
ヒサルルクの丘の周囲にそれなりの勢力圏があったことは事実だろうが、そこはもっと別の名前で呼ばれた都市だったのではないだろうか。
で、ヒッタイトがウィルサと呼んだ街は、先史時代から数千年の歴史を持つ堂々たる遺丘ではなく、もっと新しい時代に入植が始まった、ミケーネ文化に特化したようなエーゲ海沿いの新興城塞都市では…?
遺跡の層が薄ければ遺丘も目立ちにくいし、本物のトロイアは、まだ埋もれてるか、イズミルに近いあたりの既存の遺跡に紛れてる可能性もあるんじゃないかな…。
というのが、現地に行ってみての自分の所感となる。
というわけで、トロイが片付いたので、次はヒッタイト中心部へ向かいます。
つづく。
=======
まとめ読みはこちら
この巨大な博物館、長年かけて改装中で現在ほとんどのエリアが改装中のままなのだが、トロイ遺物のある2Fエリアは改装が完了している。前回来た時は雑多な倉庫みたいになってて、窓開けて換気してたのが、なんとちゃんと説明ついてて空調もある近代的な博物館に進化していた…!

行った時点で入れた場所は、この図の⑥の部分の赤枠をつけた部分のみ。前回エジプト遺物を見た②や、パルミラ遺物のあった⑦も入れない。
ちょっとしょんぼり。

⑥のトイレのある場所はトイレだけ入れて、残りはこれ。
なんかほんと「今直してる!」って感じの雰囲気。いつか完全体になった姿も見てみたいが、いつになることか。

で、トロイコーナーだが、何といっても見どころは部屋のど真ん中を天井までぶち抜くこのウォール。見た目はただの壁。だがしかし、よく見て欲しい…これ、トロイ遺跡の第0層からⅨ層までの深さを実物大で表現しているシロモノなのだ。
しっかりした石組みの城壁がⅡ層とⅥ層に集中していることも分かる。大きなハコモノならではの仕掛け。あと、深さからしてシュリーマンめっちゃ掘ったなオイ! っていうのも分かる(笑

それぞれの層についての代表的な遺物展示もある。これは視覚的にわかりやすいし面白い。

この壁の裏側に、各時代の遺物と時代の特徴について書かれたパネル展示がある。
第0層からⅢ層まではなんとなく似た感じの原始的な文化、Ⅳ層とⅤ層はアナトリア中央部からの影響が見られる文化の発展期、Ⅵ層はクレタ島やミケーネ文明との繋がりの感じられる土器が多く、Ⅶ層終盤で崩壊して居住が数百年途絶える「暗黒時代」へ。それ以降は普通のギリシャ・ローマ文化へ続く。
ここはトロイ博物館とよく似た内容の展示なので紹介は飛ばす。
ひとつ面白かったのが、トロイ出土の黄金遺物がいま世界のどこにあるのか、という展示。
よく知られているとおり、多くはドイツのベルリンにある。シュリーマンが寄贈したからである。
で、第二次世界大戦でその一部をロシアがパクったので、さらに一部は現在のロシアにある。
あとは嫁の故郷のギリシャや、イギリスなど。
下の旗の「0」がトロイ遺跡のある場所で、そこから世界への拡散と返還運動についての展示がある。

実はドイツに行った時にベルリンの博物館で「ロシアにプリアモスの財宝とられたんだけど💢」っていう怒りの展示を見ているので、これはちょっと笑ってしまった。トルコはドイツに奪われたと言い、ドイツはロシアに奪われたと言う。大変ね…という感じ。
ただ、さすがトルコさんは”本場”だけあって、その後の発掘で発見された黄金製品も豊富に持ってはいる。なので展示品に金はそれなりに入っている。「プリアモスの財宝」のようなカッコいい名前をつけられてストーリーが付与されていないから目立たないだけだろうなと思う。
その点、シュリーマンは、史実と異なるストーリーを付与したとはいえ、うまく耳目を集めることには成功した…と言っていいのだろう。
さて、今回トロイ遺跡と関連遺物を見て回ったのは、「果たしてヒサルルクの丘は本当にトロイなのか」という多くの考古学者の持つ命題に、自分なりのスタンス見つけるためだった。
といっても、実際のところはわからないので、答えを出すというよりも「そうだと信じられるか」という話になる。
このあとアナトリア中央部のヒッタイト時代の遺跡も巡るのだが、結論からいくと、自分の感覚では「ヒサルルクはウィルサだと思えない」だった。
ヒッタイト帝国が「ウィルサ」という街に言及した記録はそれなりの数が存在する。この「ウィルサ」が「イリオス」へ転嫁して「イーリアス=トロイ」になった、とする説を取るならば、ヒッタイトの言う「ウィルサ」の街はヒサルルクではない気がする。理由は、遺物の中にヒッタイトの影響の見えるのものがほぼ無いからである。
第Ⅵ層やⅦ層の遺物を眺めていても、その遺物が作られた時代にヒッタイトとやりとりしていたイメージが出てこなかった。
頻繁にやりとりしていた、ヒッタイトに認識されていた勢力であるならば、もっとヒッタイト関連や、中央アナトリアからの影響を受けた遺物があってもいい。だが、遺物の中に見えた影響はミケーネ文化などギリシャ系の影響ばかりである。
そして、ヒサルルク=ウィルサの街 という概念をいったん消してヒッタイト側の資料だけから「ウィルサ」という街の位置をイメージした場合、なんとなく浮かんできたのは、エーゲ海に面したもっと南の地方だった。ていうか、ヒサルルクはヒッタトの首都・ハットゥシャから見た場合にあまりにも辺鄙過ぎるように感じて、わざわざ政治に介入するほどの地政学的な利点が見えなかったのだ。
そして、ヒッタイトの記録には「ウィルサ」の他に「タルイサ」という都市も言及されており、それぞれが「イリオス」「トロイア」に比されているわけだが、呼び名が2つあるなら、何か理由があるはずなんだよ。町の中心が2つあって、並んだ丘それぞれに町の中心があるとか、昔の町と今の町が少しズレて作られててそれぞれに呼び名つけたとか。別々の言語で町の名前を呼んだもの、とか。
別々の言語というのは、たとえば、エジプトの主要都市にエジプト語とギリシャ語の呼び名がついているような場合だ。これは2つの文化圏が重なり合い、両方の住民がいる場合によくあるパターン。どちらの理由にしても、ヒサルルクには該当しない。
ヒサルルクの丘の周囲にそれなりの勢力圏があったことは事実だろうが、そこはもっと別の名前で呼ばれた都市だったのではないだろうか。
で、ヒッタイトがウィルサと呼んだ街は、先史時代から数千年の歴史を持つ堂々たる遺丘ではなく、もっと新しい時代に入植が始まった、ミケーネ文化に特化したようなエーゲ海沿いの新興城塞都市では…?
遺跡の層が薄ければ遺丘も目立ちにくいし、本物のトロイアは、まだ埋もれてるか、イズミルに近いあたりの既存の遺跡に紛れてる可能性もあるんじゃないかな…。
というのが、現地に行ってみての自分の所感となる。
というわけで、トロイが片付いたので、次はヒッタイト中心部へ向かいます。
つづく。
=======
まとめ読みはこちら