ハットゥシャ(ヒッタイトの首都)へ行こう②

というわけで、ハットゥシャ(遺跡名: ボアズキョイ)本体へ行く。
まず頭に入れといてほしいのは、遺跡全体の構造である。等高線の入った図がこれ。

1c.png

道は遺跡の間を縫うようにして走っており、一般的な巡回ルートは以下である。最初に、ゲートを辿りながら最高点のスフィンクス門を目指し、そこから途中の遺跡を辿りながら降りてくる。今回の自分もそのルート。

ハットゥシャは、王宮などがある「上の町」、図書館や神殿、商館などの集まる「下の町」の2つのエリアに別れているが、「上の町」は物理的に標高の高いところにある。
遺跡内部に売店やトイレなどは無く、坂道ばかりの登山ルートなので、歩く場合は登山装備で行くと楽。

入口に主要な見どころの看板が建てられている。実は、遺跡として保護されている場所の外にも遺跡エリアが広がっているため、今は村になってるところも実際には掘ったらなんか色々出てくるんだと思われる。
25が最初にハイキングで訪れた岩の穴、27はあとで行く隣の山の聖域ヤズルカヤ。

2c.png

チケットオフィス前から見た、復元された城門と現代の村。
ここまでも既に坂道で、だいぶ登ってきたところ。復元城門の内側は、古代には商店街や宿場が集まっていた場所とされる。ローマ時代のかな? っていう遺跡も混じってて、わりとカオスな感じのエリアだった。

3c.png

少し登ると図書館、下の神殿。
土台しか残っていないように見えるが、そもそも、このへんのヒッタイトの建物は土台が石、上部構造はレンガ、という構造。エジプトみたいに「神殿は全部石、民家と王宮は全部レンガ+漆喰」というような使い分けはされていない。使われている石の大きさや、組み方が丁寧かどうかくらいの差しかない。
なので上部構造がさっぱり分からん。
とりあえず、使われている石が近くの岩山から切り取ったものだなっていうのだけは分かった。

4c.png

神殿奥の小部屋みたいなところ。たぶんここが至聖処。
神像とかあったんだろうけど痕跡は何もない。

7c.png

この神殿の中で一つだけ、明らかに違うオーラを放つのがこちらの緑色の石。
神殿の中に安置されていることからして、何か信仰対象になっていたのでは、と考えられているが、よくわからないそうだ。エジプトのラメセス2世から贈られた、という伝説まであるらしい。

まあさすがにエジプトからは無いにしても、近くで採れたものとは思えず、実際、博物館めぐりをしていても、これと同じ石を使った遺物は見つけられなかった。どこから来たのか謎…。

で、この石の後ろに小さな森みたいなものが見えるが、実はそこに水場がある。

5c.png

近づいてみたところ。このトンネルみたいなところの奥が泉になっていて、水が溜まっている。
遺跡のあるところ自体が山なので、斜面に水の湧くところがあるのだ。

sfg4.png

なお、雨のあと + 遺跡本体も足元は粘土質の土 なので、この時点ですでに靴は泥の塊と化している。
「これ絶対、元は建材のレンガだった土だろww」って思いながら歩いてた。うん、エジプトよりは雨が多いし(ゆうても年間数百ミリだけど)、たぶん日乾レンガじゃなくて焼成レンガなんだろうけど、石と石の間の土がネッチャネチャで明らかに粘土なんすよここ…。雨の日は観光大変だと思う…。


遺跡の間を縫うようにして道を上っていって、ライオン・ゲートのあたりまでくるとこの風景。
かなりの高低差があることが分かると思う。途中、監視カメラはあるが監視員はいない。そして立入禁止区域もない。完全ふりーだむ。
岩の上に建物跡みたいなのがあって、ちょっと登ってみよっかなーとか思ったんだけど、あれたぶん登るのもフリーだと思う。落ちたらどうなるかは知らんけど。

まあなんか時間ある人は歩き回ってみるといいと思う。晴れた日に。

8c.png

遺跡の最高点、スフィンクス門の手前でこんな感じ。眼下には、「上の町」の町並みがある。もう少し右の方にはダム池があり、ダムのすぐ後ろが最後の王シュッピルリウマ2世の「魂の家」と呼ばれる礼拝所のある場所。村との距離で、歩きの難易度はお察しください。

9c.png

スフィンクス門はこんな感じ。レプリカに置き換えられているのもあるんだけど、思ってたより小さいな?? って感じ。
他のライオン門や王の門もそうなんだけど、「上の町」の城壁に作られた門は基本的に狭くて、荷車とかは通せない。人と、通れても輿くらいかなぁという感じ。
最初に出した標高差の図を見てもらうと分かるのだが、城門出るとすぐ急斜面なので、そもそも通る人も限られていたのだろう。

11c.png

スフィンクス門を出たところの風景がこれ。
なだらかに見えるが、手前に崖がある。

12c.png

その崖に面した城壁から下に降りるための階段がこれ。もちろん修復されたものだが、この急階段を見ると、ここが「山城」だという意味が分かってもらえると思う。
そう、城壁についた急な石階段を登らなければ、まず門にたどり着けないのだ。このスフィンクス門は、街の北側の守りの要だったんだろうなということがよく分かる。

14c.png

ちなみに、スフィンクス門の隣にはイェルカプ(YERKAPI)と呼ばれる地下道がある。
上から見たところはこれ。
急階段を降りたあとは、この道から城壁の上に戻ってくるといいよ、と立て看板が立っているので、それに従って上まで戻る。約70mほどの地下通路である。

10c.png

途中、地元の人が写真とってるところがあったので便乗して撮ってみた。この通路の中には絵文字?のようなものが何箇所かに描かれていた。

15c.png

あとで調べてみたところ、どうやらこれ、最近解読されたようで、トンネル作った人の名前とか書いてあるらしい。
へぇー。へぇー。

3500-year-old mysterious hieroglyphs discovered in Yerkapı Tunnel in Hattusa deciphered
https://arkeonews.net/3500-year-old-mysterious-hieroglyphs-discovered-in-yerkapi-tunnel-in-hattusa-have-been-deciphered/#google_vignette

で、上の町さいごの門が「王の門」。ここは王のみしか通ることを許されなかったらしい。そのわりに幅が広いのは謎だけど。
レリーフ部分はれいによってレプリカだ。

16c.png

面白いなと思ったのが、この門の右側の石組みで、隙間になんかホゾみたいなものが見える。
木ではなく銅っぽいのだが、石と石を組み合わせるのにホゾ作って噛み合わせにしていたのだとすると、建築方法としては当初から地震の多さを考慮していた可能性がある。
(エジプトの石組みは基本、ホゾはつくらない。地震少ないからだろうか)

17c.png

この王の門を出たところの斜面がいちばんなだらかであり、崖もあるものの他のところほど高低差がない。

18c.png


…ここまでで、遺跡をほぼ一周したことになる。
この時点で、頭に入れた地形から判断してなんか分かったことがある。

山肌に作られた要塞みたいなこの都市を攻め落とすなら
「王の門」から攻め入るのがいちばん手っ取り早い。
 ※ゲーム脳


いや、ていうか攻城兵器持ってくるにしろ戦車隊連れて来るにしろ、どう考えてもここでしょ一番弱いの。
目の前に平原ありますし。ハイキングコースで辿ってた川は手前で向きを変えてるのでこの場所では障害にならんですし。だいたいなんでここだけ城壁薄いんだよ。王しか通らないつったって、敵はそんなお作法守ってくれないよ?

「下の町」と「上の町」の間には天然の岩壁と段差があり、頭上から敵を攻撃出来そうないい感じに反り立つ岩もある。なので「下の町」から攻め上るには相当数の兵力がないとダメ。
ライオン・ゲートのあたりも斜面はそれほど急ではなかったが、見晴らしが良すぎて敵の接近にかなり早く気づけそうなのと、下から門に向かって登る道が右手側に城壁を見ながらの方向についているため盾を構えて矢を防げない。
対して王の門なら、城壁を左手側に見ながら登れるし、平原の向こうに丘陵があって視界が遮られるんで、急襲しやすいと思うんですよ。

あと城壁の石積が日本の山城などと比べてもかなり雑で、足がかりになる場所がたくさんあるので、見張り台と弓兵が機能しなくなった時点で登り放題ですね。地形が複雑なのが逆に索敵を難しくしてる感があって、見かけほど防衛堅固じゃない都市だなっていう印象。
(ここまで戦略シミュオタ特有の早口)


ハットゥシャは最終的に、何らかの原点で破局的な崩壊を迎えたとされる。
それが内乱によるものか、外敵によるものかははっきりしないが、もしも自分が敵対するカシュカ人武将で「ハットゥシャはいつ取れる?」って言われたら、多分、王の門あたりから急襲する。
で、この門破っちゃえばすぐとなりに王宮あるから、そこ制圧してフィニッシュ。

ハットゥシャに行って、自分で歩いてみたかった理由の一つが「ここ攻め落とす難易度ってどんなもんなんだろう」だったので、

・防衛が機能していれば難易度は高い
・機能しなくなったとたん一気に落ちそう
・城壁は崖を攻略できればなんとかなる

など色々分かったのは大変に有意義だった。
ていうかこの視点で観光しに行く人があんまりいなかったこと自体が謎なんだけど。城壁に囲まれた山城なんて、攻め落としてなんぼじゃないです?(蛮族思考)

城壁の長さも街の規模もかなりのものなので、防衛にはかなりの人手が必要だっただろう。
ヒッタイト帝国末期には、財政難や人手不足で防衛人数が足りなくなっていた可能性はありそうだなと思った。


つづく。


=======
まとめ読みはこちら