ハットゥシャ(ヒッタイトの首都)へ行こう③
さて、ここから少し考察的な内容になる。
ヒッタイトで一般的に使われた文字は二種類。メソポタミアで誕生した楔形文字と、アナトリアで独自に誕生した象形文字ルウィ語である。
これは前回のトルコ旅行で、所見では何なのかわからず、当時は日本語資料もなく、帰ってからあれこれ調べてようやく正体が判明したという経緯がある。アナトリアで独自に開発されたからか、「アナトリア文字」と呼ばれることもある。
イスタンブールで見た謎の象形文字の正体・象形文字ルウィ語まとめ
https://55096962.seesaa.net/article/201208article_15.html
ルウィ語はアナトリアで広く話されていた土着言語とされ、楔形文字で表現されることもあるが、どうも「正式な表現」は象形文字のほうであったらしい。
ハットゥシャでは、「上の町」にある聖域ニシャンテペ、および、その斜め向かいくらいにあるシュッピルリウマ2世の「王の魂の墓」にあった。
そして重要なことに、ヒッタイト帝国滅亡後も長く生き残ったのは、この独自の象形文字のほうなのである。
つまり、
楔形文字=限られた知識層のみの文字、公式文書や国際書簡には使うが民衆には支持されていない
象形文字ルウィ語=民衆や低レベルの知識層も知っている、より広く使われていた
という状態だった可能性が高い。
手間がかかる上に見た目もエキセントリックなこの文字が、なぜそんなに広く使われていたのだろう。ていうか、わざわざこの文字を開発した理由って何なんだろう。
それがずっと気になっていた。
で、今回、あることに気がついたのだ。
屋外の天然光で見た場合、象形文字ルウィ語のほうが圧倒的にカッコいい。

これはニシャンテペの向かい、「東のため池」と呼ばれている池のすぐ裏手に作られている「王の魂の墓」と呼ばれる施設の壁面。
文字が描かれているのは向かって右側の壁だけで、正面には女神像、左手側には王の像だけが刻まれていて他には何もない。最後の王の建造物なので、おそらく未完成なのだと思われる。


ただ、雰囲気はなんとなく分かると思う。なんかすげーパワースポットっぽい威厳を感じる。これエジプトのヒエログリフと同じ視覚効果だわ。ヒッタイトでは王の作る碑文や神殿の銘などはルウィ語で描かれたとされるが、そりゃ神殿の壁に刻むなら、断然こっちですわ。
博物館だと楔形文字の碑文や粘土板が多いから気づかなかったけど、
楔形文字=粘土板に書くならコンパクトなこっち
象形文字=人目につくところで視覚効果を狙うならこっち
という選択基準もあり、エジプトで言うヒエラティック(崩したヒエログリフ、筆記体)、ヒエログリフ(いわゆる聖刻文字、神殿の壁面などはこちら)という使い分けに等しかったのだ。
そして、もしかしたらヒッタイトが象形文字を使い始めたのは、エジプトのヒエログリフを見て「いいな、あれカッコいいから真似しよ」と思ったからかもしれない。
この「魂の墓」の横に立てられている現代の説明書きに「後ろの壁にいる頭上に翼のある太陽の円盤を持つ太陽神と思われる神は、わずかに変形されたエジプトの生命のシンボル(アンク)を手に持っています。」とあったが、エジプト美術の影響やシンボル・神格の輸入は実際に行われていた。
楔形文字は輸入品の文字、象形文字は独自に帝国内で生み出されたもの。
してみれば、象形文字のほうが長く生き残ったのは、それが民族アイデンティティの象徴にもなっていたからではないだろうか。
帝国滅亡後のネオ・ヒッタイトと呼ばれるシリア勢力が象形文字使い続けた理由もこれで納得いく説明がつけられる。
ただ、この文字、きれいに残ってる箇所はこの「魂の墓」のみ。
曇天だったこともあり、ニシャンテペのレリーフはほとんど見えず(笑 これ真昼に日差しのある時に行かないと凹凸見えないやつだな…。


ヤズルカヤにも文字は一応あるらしいのだが、神像の上に絵文字みたいなのがあること以外は判別出来なかった。ここもレリーフは薄い。
石が硬いのや、屋外なので風化しているのもあるだろうが、エジプトの彫り込みに比べると浅すぎる気もした。青銅器時代の末期なんで、青銅ノミは使えたはずなんだけど、エジプトに比べると、なんかあんまり執念込めて掘ってる記念碑という感じはしない。


ヤズルカヤはハットゥシャから見ると「隣の山」というポジションで、入口からして山道を登っていくことになる。
岩に掘り込まれた像のある場所の手前には、かつて建物が作られていて、儀式の時しか入れなかっただろうとされる。
こんな岩の隙間になぜレリーフを掘ったのかというと、どうもヒッタイトの信仰では「岩山に聖なるものが宿る」という山霊信仰みたいなのがあったことと、山の岩の隙間に冥界が通じる思想があったかららしい。
ただしここに王墓はない。王の霊を神として祀る神殿で、エジプトでいうと「葬祭殿」のような機能を持っていたのでは? と考えられているそうだ。
…にしても、なんでこの岩山を聖なるものと設定したのかは謎だ。
岩の隙間みたいなところにレリーフがあったので、「岩山が谷/道みたいになっている地形」が重要だったのかもしれないが…。

この遺跡は2つの部屋しかないが、Chamber Bと呼ばれてるほうは岩と岩の隙間にあり、大人数のツアーでいくと、ろくに壁面が見えないんじゃないかなと思った。行くなら人のいない時間をオススメ。とはいえ日中でないと浮き彫りが全然見えないんだけど。

あとで立ち寄った、遺跡の入口のボアズキョイ博物館の壁面には「王の魂の家」の象形文字のレプリカがしっかり作られていた。このくらいの凹凸があると見えやすいんですけどねー。
ヤズルカヤの神々の像といっしょに描かれているはずの象形文字については説明が無かった。

つづく。
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まとめ読みはこちら
ヒッタイトで一般的に使われた文字は二種類。メソポタミアで誕生した楔形文字と、アナトリアで独自に誕生した象形文字ルウィ語である。
これは前回のトルコ旅行で、所見では何なのかわからず、当時は日本語資料もなく、帰ってからあれこれ調べてようやく正体が判明したという経緯がある。アナトリアで独自に開発されたからか、「アナトリア文字」と呼ばれることもある。
イスタンブールで見た謎の象形文字の正体・象形文字ルウィ語まとめ
https://55096962.seesaa.net/article/201208article_15.html
ルウィ語はアナトリアで広く話されていた土着言語とされ、楔形文字で表現されることもあるが、どうも「正式な表現」は象形文字のほうであったらしい。
ハットゥシャでは、「上の町」にある聖域ニシャンテペ、および、その斜め向かいくらいにあるシュッピルリウマ2世の「王の魂の墓」にあった。
そして重要なことに、ヒッタイト帝国滅亡後も長く生き残ったのは、この独自の象形文字のほうなのである。
つまり、
楔形文字=限られた知識層のみの文字、公式文書や国際書簡には使うが民衆には支持されていない
象形文字ルウィ語=民衆や低レベルの知識層も知っている、より広く使われていた
という状態だった可能性が高い。
手間がかかる上に見た目もエキセントリックなこの文字が、なぜそんなに広く使われていたのだろう。ていうか、わざわざこの文字を開発した理由って何なんだろう。
それがずっと気になっていた。
で、今回、あることに気がついたのだ。
屋外の天然光で見た場合、象形文字ルウィ語のほうが圧倒的にカッコいい。

これはニシャンテペの向かい、「東のため池」と呼ばれている池のすぐ裏手に作られている「王の魂の墓」と呼ばれる施設の壁面。
文字が描かれているのは向かって右側の壁だけで、正面には女神像、左手側には王の像だけが刻まれていて他には何もない。最後の王の建造物なので、おそらく未完成なのだと思われる。


ただ、雰囲気はなんとなく分かると思う。なんかすげーパワースポットっぽい威厳を感じる。これエジプトのヒエログリフと同じ視覚効果だわ。ヒッタイトでは王の作る碑文や神殿の銘などはルウィ語で描かれたとされるが、そりゃ神殿の壁に刻むなら、断然こっちですわ。
博物館だと楔形文字の碑文や粘土板が多いから気づかなかったけど、
楔形文字=粘土板に書くならコンパクトなこっち
象形文字=人目につくところで視覚効果を狙うならこっち
という選択基準もあり、エジプトで言うヒエラティック(崩したヒエログリフ、筆記体)、ヒエログリフ(いわゆる聖刻文字、神殿の壁面などはこちら)という使い分けに等しかったのだ。
そして、もしかしたらヒッタイトが象形文字を使い始めたのは、エジプトのヒエログリフを見て「いいな、あれカッコいいから真似しよ」と思ったからかもしれない。
この「魂の墓」の横に立てられている現代の説明書きに「後ろの壁にいる頭上に翼のある太陽の円盤を持つ太陽神と思われる神は、わずかに変形されたエジプトの生命のシンボル(アンク)を手に持っています。」とあったが、エジプト美術の影響やシンボル・神格の輸入は実際に行われていた。
楔形文字は輸入品の文字、象形文字は独自に帝国内で生み出されたもの。
してみれば、象形文字のほうが長く生き残ったのは、それが民族アイデンティティの象徴にもなっていたからではないだろうか。
帝国滅亡後のネオ・ヒッタイトと呼ばれるシリア勢力が象形文字使い続けた理由もこれで納得いく説明がつけられる。
ただ、この文字、きれいに残ってる箇所はこの「魂の墓」のみ。
曇天だったこともあり、ニシャンテペのレリーフはほとんど見えず(笑 これ真昼に日差しのある時に行かないと凹凸見えないやつだな…。


ヤズルカヤにも文字は一応あるらしいのだが、神像の上に絵文字みたいなのがあること以外は判別出来なかった。ここもレリーフは薄い。
石が硬いのや、屋外なので風化しているのもあるだろうが、エジプトの彫り込みに比べると浅すぎる気もした。青銅器時代の末期なんで、青銅ノミは使えたはずなんだけど、エジプトに比べると、なんかあんまり執念込めて掘ってる記念碑という感じはしない。


ヤズルカヤはハットゥシャから見ると「隣の山」というポジションで、入口からして山道を登っていくことになる。
岩に掘り込まれた像のある場所の手前には、かつて建物が作られていて、儀式の時しか入れなかっただろうとされる。
こんな岩の隙間になぜレリーフを掘ったのかというと、どうもヒッタイトの信仰では「岩山に聖なるものが宿る」という山霊信仰みたいなのがあったことと、山の岩の隙間に冥界が通じる思想があったかららしい。
ただしここに王墓はない。王の霊を神として祀る神殿で、エジプトでいうと「葬祭殿」のような機能を持っていたのでは? と考えられているそうだ。
…にしても、なんでこの岩山を聖なるものと設定したのかは謎だ。
岩の隙間みたいなところにレリーフがあったので、「岩山が谷/道みたいになっている地形」が重要だったのかもしれないが…。

この遺跡は2つの部屋しかないが、Chamber Bと呼ばれてるほうは岩と岩の隙間にあり、大人数のツアーでいくと、ろくに壁面が見えないんじゃないかなと思った。行くなら人のいない時間をオススメ。とはいえ日中でないと浮き彫りが全然見えないんだけど。

あとで立ち寄った、遺跡の入口のボアズキョイ博物館の壁面には「王の魂の家」の象形文字のレプリカがしっかり作られていた。このくらいの凹凸があると見えやすいんですけどねー。
ヤズルカヤの神々の像といっしょに描かれているはずの象形文字については説明が無かった。

つづく。
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まとめ読みはこちら