アラジャホユックへ行こう
ハットゥシャ/ボアズキョイから車で40分くらいのところにある遺跡、アラジャホユック。
ここは、正しく遺丘(トルコ語でホユック、アラビア語でテル)の形になっている、各時代の地層が積み重なっている場所。ヒッタイト帝国が築かれる以前の有力者の墓もあり、地元勢力の拠点だったと思われる場所だ。
その上にヒッタイト時代の遺跡が築かれており、入口のスフィンクスなど、ハットゥシャと共通する構造も多い。
行った時は雨が降っていて、遺跡はドロッドロだった。
というか、ここもハットゥシャと同じく岩の隙間に粘土が溜まってる構造なので、靴の汚れ方がハンパない。そして、やたらデカい犬がいる…w
(トルコ全般、遺跡にも町にもデカい犬が落ちてる)

この遺跡の層別の年代は、遺跡内のパネルがわかりやすい。
一番上はオスマントルコ時代の層があったらしいが、それはもう剥がされて残っていない。その下は一気にフリュギアまで飛ぶので、しばらく人が住んでいなかったらしい。フリュギアの下がヒッタイト。
現在の遺跡で表面に出ているのは、このヒッタイト時代の立派な遺跡がほとんどで、王墓の部分だけ、それより古い早期青銅器時代の層が表に出されている。

ここに来てみたかったのは、代表的な遺丘の構造を確かめたかったからと、遺跡と現在の集落の境界ってどうなってるのか見てみたかったからだ。
で、思っていたとおり、遺跡として保護されているのは一部だけ、という構造だった。
…ここが遺跡のいちばん西、ヒッタイト時代の「門」があった場所なのだが、門の外にあっただろう市街地部分はすべて畑。畑なので調査されていない。う、うーん。
いや絶対これ外側にもなんかあるよね…。

遺跡のいちばん北がいちばん高くなっているのだが、その背後はちょっと谷になっていて、すぐ民家。北の展望台から遺跡を見回すと、東鴨もびっしりと民家。
残されているのは城壁に囲まれた神殿・軍事施設エリアのみだが、町として機能するためには他にも様々な施設があったはずなので、それらは全て現在の町の下に埋もれているか、町が何度も更新されるうちに痕跡が消えてしまったということになる。

面積は大きくはないわりにしっかり遺跡残ってるな…と思ったけど、逆に、しっかり残ってる部分しか認識できなかったんじゃないか? という気がした。
ヒッタイトの遺跡は、よく目立つ石造りの城壁や神殿の基礎を残すので、そこだけ注目されがちだけれど、地層でも建造物のあった痕跡は判別することが出来る。
日本の遺跡とかがそうで、木が腐ったあとでも土の重なり方の違いで「ここにはかつて木の柱があったな」とか「腐って無くなってるけど建物の土台があった痕跡が見えるな」とか調べている。ただし、判別のためには地層を丁寧にうすーく剥がしていかないといけない。
古い時代に発掘された遺跡は、どこもガッツリ掘って石組みや土器片のようなわかりやすいものを見つけることに注力していて、色々見落とされたり情報が落とされたりしてるんだろうな…という印象を受けた。それもまた、時代といえば時代なのだが。
時代といえば、入口のスフィンクス門の両脇のレリーフがセメントでがっつり貼り付けられているのは「ちょw」と思ってしまった。
本物のレリーフではなくレプリカなのだが、それにしても雑な復元。

スフィンクスの脇腹には、「双頭の鷲」がある。ハプスブルク家の紋章ではない。ヒッタイトでよく使われたシンボルで、世界最古級の双頭の鷲といえばここのものなのだ。
鷲は足でウサギを掴んでいる。鷲の体の部分は日輪を翼で表す太陽神の表現と同じ。

面白いのが西門から続く地下道。これはハットゥシャの北のスフィンクス門の側にもあった。
ヒッタイトの城門は地下道とセットにするのが基本形らしい。中は現在でも通ることが出来、トンネルをくぐり抜けると城壁内部の市街地に出られる。もしかしたら、門を閉じたあとに逃げ遅れた仲間が逃げ込んでくるための道とかだったのかもしれない。


いちばん古い早期青銅器時代の墓は、入口から左手、ちょうど神殿の遺跡の脇にずれた場所にある。もし神殿の真下だったら気づかれていなかったかもしれない。

この墓からは、有名な「太陽円盤」と呼ばれる青銅器が出ている。
本当に太陽の表現かはわからないが、日輪をデザインしたものでは? と言われているのだ。現在は、墓の中にレプリカが入れられている。

遺跡の側のちいさな博物館は地下室部分が本体。というか、ここには貴重な土器が多数展示されている。
いいものはアンカラやイスタンブールの博物館に持って行かれているので土器ばかりなのだが、逆に土器好きには楽しい。
たまに見かける、やたら平らな壺、実は水筒だったこともここで知った。あれって人が直接背負うものだったんだ。水筒って革袋以外にもあるんだ…。

あとこれは「茶こし」とだけ説明があって、「茶こし???!!」ってなったやつ。
ほんとに茶こし? いや、ていうかお茶ないでしょこの時代。ヨーグルトとか作るやつ…かな…?

土器の数からしてヒッタイト時代のものがいちばん多く、フリュギア、オスマンのものは少ない。おそらく、ここがかつて町だった時に最も盛んに人が行き来していた活動期はヒッタイト時代なのだろう。
最古の遺跡は紀元前6,000年くらいのものになっていた。小さな遺跡ではあるが、歴史の積み重ねを感じられる見ごたえのある場所で、時間があるならハットゥシャとセットで訪れることをおすすめしたい。
あと余談ですが、ここの遺跡の周りの小さな街の喫茶店、日本人って分かるとやたらフレンドリーにしてくるおじさんいました。
今回ボイストラっていう翻訳アプリ使ったんだけど、トルコ語の感度は良好。だいたい通じた。
そのおじさんが通行人に向けて放った「あいつはアレヴィーだから」というセリフがなかなかに衝撃的でしてね…
いやうん、アナトリア中部にアレヴィー教徒が多いことも、差別意識があることも知ってたんだけど、マジでそれあるんだ?! みたいな。アレヴィーはアラビア語のお祈りをしないし、断食もしないし、よくわからん連中なんだと言っていた。
まあ確かに、本来イスラム教じゃない別宗教なのに、弾圧を受けないために「イスラームの一派です!」と言い張ってきた歴史があるので、「イスラームにしては意味わかんない(=隣人と認め難い)」みたいなのがあるのは分かる。クルド人に信者が多いというのも相まって、村八分になる流れも理解できる。
でも目の前でその差別意識の一端を当たり前のように見せられると、なかなかに…。
完全によそ者なので「差別はよくないですよ」みたいな説教ができるわけもなく、曖昧に微笑んでお茶飲んで立ち去る日本人しぐさ。
また一つ、この国に詳しくなった瞬間であった。
つづく。
=======
まとめ読みはこちら
ここは、正しく遺丘(トルコ語でホユック、アラビア語でテル)の形になっている、各時代の地層が積み重なっている場所。ヒッタイト帝国が築かれる以前の有力者の墓もあり、地元勢力の拠点だったと思われる場所だ。
その上にヒッタイト時代の遺跡が築かれており、入口のスフィンクスなど、ハットゥシャと共通する構造も多い。
行った時は雨が降っていて、遺跡はドロッドロだった。
というか、ここもハットゥシャと同じく岩の隙間に粘土が溜まってる構造なので、靴の汚れ方がハンパない。そして、やたらデカい犬がいる…w
(トルコ全般、遺跡にも町にもデカい犬が落ちてる)

この遺跡の層別の年代は、遺跡内のパネルがわかりやすい。
一番上はオスマントルコ時代の層があったらしいが、それはもう剥がされて残っていない。その下は一気にフリュギアまで飛ぶので、しばらく人が住んでいなかったらしい。フリュギアの下がヒッタイト。
現在の遺跡で表面に出ているのは、このヒッタイト時代の立派な遺跡がほとんどで、王墓の部分だけ、それより古い早期青銅器時代の層が表に出されている。

ここに来てみたかったのは、代表的な遺丘の構造を確かめたかったからと、遺跡と現在の集落の境界ってどうなってるのか見てみたかったからだ。
で、思っていたとおり、遺跡として保護されているのは一部だけ、という構造だった。
…ここが遺跡のいちばん西、ヒッタイト時代の「門」があった場所なのだが、門の外にあっただろう市街地部分はすべて畑。畑なので調査されていない。う、うーん。
いや絶対これ外側にもなんかあるよね…。

遺跡のいちばん北がいちばん高くなっているのだが、その背後はちょっと谷になっていて、すぐ民家。北の展望台から遺跡を見回すと、東鴨もびっしりと民家。
残されているのは城壁に囲まれた神殿・軍事施設エリアのみだが、町として機能するためには他にも様々な施設があったはずなので、それらは全て現在の町の下に埋もれているか、町が何度も更新されるうちに痕跡が消えてしまったということになる。

面積は大きくはないわりにしっかり遺跡残ってるな…と思ったけど、逆に、しっかり残ってる部分しか認識できなかったんじゃないか? という気がした。
ヒッタイトの遺跡は、よく目立つ石造りの城壁や神殿の基礎を残すので、そこだけ注目されがちだけれど、地層でも建造物のあった痕跡は判別することが出来る。
日本の遺跡とかがそうで、木が腐ったあとでも土の重なり方の違いで「ここにはかつて木の柱があったな」とか「腐って無くなってるけど建物の土台があった痕跡が見えるな」とか調べている。ただし、判別のためには地層を丁寧にうすーく剥がしていかないといけない。
古い時代に発掘された遺跡は、どこもガッツリ掘って石組みや土器片のようなわかりやすいものを見つけることに注力していて、色々見落とされたり情報が落とされたりしてるんだろうな…という印象を受けた。それもまた、時代といえば時代なのだが。
時代といえば、入口のスフィンクス門の両脇のレリーフがセメントでがっつり貼り付けられているのは「ちょw」と思ってしまった。
本物のレリーフではなくレプリカなのだが、それにしても雑な復元。

スフィンクスの脇腹には、「双頭の鷲」がある。ハプスブルク家の紋章ではない。ヒッタイトでよく使われたシンボルで、世界最古級の双頭の鷲といえばここのものなのだ。
鷲は足でウサギを掴んでいる。鷲の体の部分は日輪を翼で表す太陽神の表現と同じ。

面白いのが西門から続く地下道。これはハットゥシャの北のスフィンクス門の側にもあった。
ヒッタイトの城門は地下道とセットにするのが基本形らしい。中は現在でも通ることが出来、トンネルをくぐり抜けると城壁内部の市街地に出られる。もしかしたら、門を閉じたあとに逃げ遅れた仲間が逃げ込んでくるための道とかだったのかもしれない。


いちばん古い早期青銅器時代の墓は、入口から左手、ちょうど神殿の遺跡の脇にずれた場所にある。もし神殿の真下だったら気づかれていなかったかもしれない。

この墓からは、有名な「太陽円盤」と呼ばれる青銅器が出ている。
本当に太陽の表現かはわからないが、日輪をデザインしたものでは? と言われているのだ。現在は、墓の中にレプリカが入れられている。

遺跡の側のちいさな博物館は地下室部分が本体。というか、ここには貴重な土器が多数展示されている。
いいものはアンカラやイスタンブールの博物館に持って行かれているので土器ばかりなのだが、逆に土器好きには楽しい。
たまに見かける、やたら平らな壺、実は水筒だったこともここで知った。あれって人が直接背負うものだったんだ。水筒って革袋以外にもあるんだ…。

あとこれは「茶こし」とだけ説明があって、「茶こし???!!」ってなったやつ。
ほんとに茶こし? いや、ていうかお茶ないでしょこの時代。ヨーグルトとか作るやつ…かな…?

土器の数からしてヒッタイト時代のものがいちばん多く、フリュギア、オスマンのものは少ない。おそらく、ここがかつて町だった時に最も盛んに人が行き来していた活動期はヒッタイト時代なのだろう。
最古の遺跡は紀元前6,000年くらいのものになっていた。小さな遺跡ではあるが、歴史の積み重ねを感じられる見ごたえのある場所で、時間があるならハットゥシャとセットで訪れることをおすすめしたい。
あと余談ですが、ここの遺跡の周りの小さな街の喫茶店、日本人って分かるとやたらフレンドリーにしてくるおじさんいました。
今回ボイストラっていう翻訳アプリ使ったんだけど、トルコ語の感度は良好。だいたい通じた。
そのおじさんが通行人に向けて放った「あいつはアレヴィーだから」というセリフがなかなかに衝撃的でしてね…
いやうん、アナトリア中部にアレヴィー教徒が多いことも、差別意識があることも知ってたんだけど、マジでそれあるんだ?! みたいな。アレヴィーはアラビア語のお祈りをしないし、断食もしないし、よくわからん連中なんだと言っていた。
まあ確かに、本来イスラム教じゃない別宗教なのに、弾圧を受けないために「イスラームの一派です!」と言い張ってきた歴史があるので、「イスラームにしては意味わかんない(=隣人と認め難い)」みたいなのがあるのは分かる。クルド人に信者が多いというのも相まって、村八分になる流れも理解できる。
でも目の前でその差別意識の一端を当たり前のように見せられると、なかなかに…。
完全によそ者なので「差別はよくないですよ」みたいな説教ができるわけもなく、曖昧に微笑んでお茶飲んで立ち去る日本人しぐさ。
また一つ、この国に詳しくなった瞬間であった。
つづく。
=======
まとめ読みはこちら