アナトリア中央部総括:ヒッタイト帝国の首都はなぜ「そこ」なのか

アナトリア中央部は水源が少なく、しばしば干ばつの影響を受ける過酷な場所だとされている。
にも関わらず、ヒッタイトは帝国の首都にハットゥシャを選択した。なんでそこが首都じゃなきゃならなかったのか。

…というのは、よく言われる命題。そして、今回の現地凸の裏テーマであった。

参考:
近年のトルコは降水量減、赤い河と干ばつについて
https://55096962.seesaa.net/article/502971643.html

ちなみに、トルコは農業国であり、アンカラから東(ハットゥシャのある方面)へ向かう幹線道路沿いは ひたすら小麦畑 である。古代世界においても主食は小麦なので、おそらく帝国のあった当時も、人口を養うために畑が広がっていただろう。

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ただし、水源がないのである。
川はクズルウルマックとその支流のみ。森林なし。水を生み出す高い山もなし。ひたすら丘陵&畑。水路もないので天水農業をしていると分かる。これは雨降らないと確かに厳しい。
マルマラ海に面したヒサルルク(トロイ遺跡)周辺や、今回は行っていない黒海沿岸の緑の多さと、アナトリア中央部の風景は全く異なる。

だが例外的に、ハットゥシャには豊富な水源があった。
街自体がそこそこ高い山の上にあるうえに、すぐ隣の谷には川が流れている。
最初の直感どおり、ここに街が作られた一つの理由は、間違いなく「安定した水源が確保出来ている」だろうと思う。

今回周ったアンカラ近くの遺跡の範囲では、牧草地の仕切り代わりに植えられたポプラ以外でまともに天然林らしきものが見られた場所はハットゥシャ周辺だけだった。

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また、もう一つの理由として、ヒッタイト自体がもともと弱小勢力から成り上がってきた後発勢力のため、緑の豊富な沿岸部はすべてほか勢力に押さえられた状態からのスタートだったと思われる。
つまり、確保できる勢力圏の中でわりとマシな場所がハットゥシャなのでは。大河は水源としては優秀だが、近すぎると低地なので氾濫の危険性がある。クズルウルマック沿いが選ばれなかったのはそのためだろう。
中央アナトリアで、安定した水源が確保できて防衛に適した高台、っていう条件に一致する場所はそれほど多くないと思う。


次に干ばつの影響について考えてみたい。
ヒッタイト帝国の時代の農業は、自然の降雨に頼る天水農業だったとされるが、帝国時代を通じて、干ばつは頻繁に起きていたと考えられている。ヘタしたら数十年おきに干ばつを食らっていたかもしれないという。

これは、水の枯れにくい川に近い場所であれば、人間の手で水を撒くなどして多少は軽減できる。また、地下水の利用が可能なら、最低限の収穫は確保できるとも思われる。
ハットゥシャの側を流れる川、街中にあった泉はどのくらい干ばつに耐えられただろうか。
都市の周辺には農地が広がっていたはずだが、その農地には川から水を引く水路は無かったのだろうか?

ヒッタイトが灌漑農法を使った記録は、ダム建設をしていたという記述以外では見たことがない。
だが、麦作の発祥地に近いイラクのチャルモ遺跡の初期農業では、すでに天水農業と灌漑を組み合わせる方法が使われていた可能性があるとされる。
とすれば、畑に水路を引いて作物の成長をコントロールする技術自体は知ってたのでは? とも思える。

アラジャホユックには排水システムも残っていたが、こういう水路作れる技術あるなら、遠方から水引いてくるのもできると思うし。
あと、アラジャホユックにはダムが作られていた痕跡もあるので、おそらく農法としてはダムの水を使った灌漑もあったと思う。

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メソポタミアやエジプトほどの立派な灌漑設備ではないから、そして水路設備が畑の下に埋もれているから、ヒッタイトでどのくらい灌漑農法やってたか気づいていないだけでは。という気もするのだ。

というわけで、ヒッタイトの首都がこの場所でなければならなかった理由には、「いざとなったら灌漑農法が使える・干ばつに比較的強い地域にある」というものも数えておきたい。

つづく。


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