個々の論説は面白いが、学会史節目の論文集としては期待外れ「ケルト学の現在」

日本ケルト学会が創立50周年の記念として刊行した論文集、「ケルト学の現在」。タイトルからして最近の動向が盛り込まれてるのかなと思って読んでみたのだが、結果的に期待外れ。
というか、やりたいことに対してタイトルが合っていないなと感じた。

ケルト学の現在 - 日本ケルト学会, 梁川英俊, 森野聡子
ケルト学の現在 - 日本ケルト学会, 梁川英俊, 森野聡子

まず最初に、自分が認識している「ケルト学の現在」について述べておく。
端的に言うと、現在、考古学的な「ケルト」(=古代人を指す。いわゆる大陸ケルト)と言語としての「ケルト」(=近代に名付けられた語族名、またこの言語を使う地域・民族のこと。いわゆる島のケルト)は、別ものとして扱われる傾向にある。
根拠の薄いまま両者が繋がりを持つものとして扱われてきた慣習が否定され、教科書が書き換わりつつある状態にあるわけだ。

以前自分が書いた以下の記事も参考に。

歴史的に実在する「ケルト」と現在の「ケルト」は別モノであるという話/再まとめ
https://55096962.seesaa.net/article/201802article_4.html

専門家の書いた内容で読みたければ以下などを参考に。

ケルト研究の現在・過去・これから―近年の考古学,言語学,考古遺伝学の動向から ―
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3991/1/p039-120_%E5%B8%B8%E8%A6%8B%E5%85%88%E7%94%9F.pdf

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「人(民族)と文化と言語が等記号で結ばれ,ケルト語が確認されるところ,あるいはラ・テーヌの人工遺物などが見つかったところは,ケルト人が存在した,あるいは,移住したところと解釈された点にある」
と書かれているが、この伝統的な解釈の等記号が外されるのが当たり前になろうとしているのが「現在」。古代に存在した「ケルト人」の遺物の分布範囲と、のちに「ケルト語」と名付けられた言語が使われている言語圏は一致しない。そして、そもそもケルト人が話していたのがケルト語だった確証がなく、ケルト人の移動とともにケルト語が広まったかどうかもわからない。というのが現在の状況なのだ。

なので「ケルト学の現在」というのなら、「根拠の薄いままごっちゃにされてきた「古代ケルト人」と「ケルト語」を別物として扱い、ケルト学の範囲と構成を見直すべきフェーズに入っている」 という話にすべきだった。


しかし、冒頭の「総論」で述べられた内容は全くの真逆で、この現状を認識していながら「両者の関係を明らかにしたい」「両者の関係をどうとらえるかによる」といった及び腰の表現で、なおも「古代のケルト」と「近代に名付けられた言語学上の名称としてのケルト」を、繋がりのあるものとして扱おうとしている。

かつてケルト美術の代表例みたいに言われていた渦巻き模様の装飾品は、既にアイルランドでは「ケルト」のラベルを剥がされ、アイルランド古典様式と呼ばれているのだが、それもケルト美術って呼んじゃっているし。

書き換えの波は確実に続いているので、あくまで既存の枠にこだわるのなら取り残されるだけだと思うのだが、それが望みなら、そうですか。としか言えない。



で、期待はずれと書いたが、ではこの本が何をやろうとしているかというと、「これまで日本でケルトという言葉にまとわりついてきた<幻想>のイメージを払拭したい。」である。

これまでケルトに神秘や魔術のイメージをまとわりつかせていた研究史を反省し、それらを排除して、幻想に惑わされないケルトの魅力を知ってほしい、というのが本の内容なのだ。
しかし、幻想からの脱却は今始まった話ではなく、「現在」でもない。むしろ「ちょっと前」であり、タイトルにするなら「幻想と妖精から脱却したケルト学のリアル」くらいが良かったのではないか。

また、本の「はじめに」の部分で自ら書いているとおり、本来のケルト学とは「ケルト諸語、という言語を中心とした言語学」である。
にもかかわらず、実際にはこの本の中で言語学に関する章は1つだけ。残りは考古学や文学研究の章。つまり、ケルトという言葉にぶち込まれた雑多な概念としてのケルト全てを扱ってしまっている。
これでは、「ケルト学の」現在ではなく、「日本ケルト学会の」現状、と言うべきだろう。

ここで思い出したいのが、紀元前の「哲学」の在り方である。かつて「哲学」という学問は、は全てのジャンルを内包する広い範囲のことであった。
そこから時代ごとに、倫理学、法律、神学、心理学などが分離していった。細分化することが必ずしも正しいとは言わないが、これら分離したジャンルはそれぞれに、何を目的とし、何を目指す学問なのかを確立し、細分化されることによって深度を増した。

今の「ケルト学」は、古代ギリシャの時代の哲学と同じく、何を研究対象とし、何を目指すのかわかっていない、ごった煮の「なんでもあり」ジャンルになってしまっているように感じる。
ジャンルが多岐にわたるのは、ケルト学の地平が広いのではなく、単に「何をケルトとするか/呼ぶべきか」「何を研究対象とすべき学問ジャンルなのか」の判断がついておらず、従来の曖昧な分類のまま動いているからだ。
だから分かりづらい。目指す人も少ない。
独立した学科にすることも出来ない理由もそこにあるのではないかと思う。

だいたい、ケルト音楽と言って近代アイリッシュを持ち出し(ジャンル:音楽史)、ケルト文学と言ってマビノギオンやアーサー王物語を取り出し(ジャンル:中世文学)、ケルト語と言って古代アイルランド語を取り出して(ジャンル:言語学)、全部まとめてケルト学です! いやーケルト学の地平は広いですね~ とか言われても、「結局あなたたちの研究対象は何ですか?」としか言いようがない。名称を定義するのも、学問として扱う範囲を決めるのも、専門家の役目である。どんなジャンルでもそう。

外から見ればツッコミどころ満載なのだが、誰も指摘しないのだろうか…。
もしくは、疑問は抱くけどどうしようもないので現状維持なのだろうか…。


さすが名だたる先生方が揃っているだけあって、論文それぞれ単品では示唆に富む面白い内容になっている。
が、それらを一つにまとめて「ケルト学の現在」と銘打つのは悪手だし、冒頭の何を言いたいんだか不明瞭になっている総論は、学問ジャンルとしての未来は暗いと感じさせる内容になっている。この本を見て果たして学生が「ケルト学やりたい!」と思うだろうか。
どうにもそうは思えず、目的と方向性を見誤っているなという残念な気持ちだけが残った。
各著者間でも最近の新しい潮流に対する温度差があるなという気はしたが、学会の節目の論文集と名乗るにはちょっと煮えきらない。

もし、この論文集を手直しして一般むけに出し直すのなら、曖昧なまま言葉を濁している部分に対する、学会としてのスタンスを決めてから出したほうがいいと思う。


*****
余計なお世話かもしれないが、「ケルト学とは言語学である」と言い切るのであれば、フィン語の視点は入れたほうがいいと思う。

現在ケルト語と呼ばれているものはインド・ヨーロッパ語族で、人の移動が関わっているのは確実だが、いつ西ヨーロッパ~ブリテン島に入ったか分からないとされるが、フィン語も同じくらいの距離を移動してきているからだ。
フィン語はウラル語族であり、トルコ語などの属するアルタイ語族、つまりアジア系騎馬民族の言語の遠縁にあたる。起源地は特定できないが、分布からしておそらく、北東アジアかバイカル湖あたりの地域から移動してきている。
故郷からはるばる移動してきて、大陸の端っこに定着して残ってる言語、という意味ではケルト語に近いポジションにあるのはフィン語とかマジャール語だと思うのだ。もし「ケルト語は元々誰によって話されていた言葉なのか」を突き止める気があるのなら、共通する部分は参考になるのでは。

…突き止めようとする気はなくて、「ケルト語はケルト人のものだから!」で思考停止している気がするので一応書いておいた。まず、そこ明らかにしようとしないと、幻想の霧は一向に晴れないと思うんですけども。