古代のケルト人に統一文化はあったのか。「古代ケルト人の紛争解決と集会」という小論についてのツッコミ
「ケルト学の現在」という論文集の中で、唯一、考古学寄りの内容で書かれていたのが「古代ケルト人の紛争解決と集会」という論文だった。
が、この論文の内容が、ほんとに複数人の学者で査読してこれなのか??? と思う内容で、疑問ばかりが湧いてくるものだったので、自分の考えをまとめておこうと思う。
この論文は前段と後段の二段構えになっている。
前段: ケルト懐疑論の創始者についての考察 (※島のケルトに特化している)
後段: 広範囲に移住していた古代のケルトを民族と呼べるだけの共通点はあったのか (※古代のケルト人は大陸ケルト)
この時点でデカいツッコミどころがある。
そう、なんで前段と後段で「島のケルト」と「大陸のケルト」の話をしているのか、という点だ。
既にひとつ前の記事に書いたとおり、両者は別ものであり、繋がりがあるとは言えなくなっている。そしてケルト懐疑論とは、まさにこの部分に対するツッコミなのだ。ケルト懐疑論について書くのなら両者を何の注釈もなく混同してはならない。真摯に向き合い評価べき部分について、いきなり第一章から有耶無耶にしようとしていることも、この本を「期待外れ」と評価した大きな要員である。
後段の話をメインとしたいのなら、前段部分で言及する内容は大陸側の考古学的な民族概念としてのケルトに絞るか、ケルト懐疑論の概要だけ触れて後段にページを割くべきだったのでは?と思う。
だが、なぜかこの構成が受け入れられてしまっているので、首をひねりつつも話を進める。
後段へのツッコミに行く前に、前提となる概要をさらっと流しておく。
古代のケルト人、つまり考古学的な意味でのケルトという概念は、自称ではなく他称になる。そしてローマ人が書いた記録が名称の根拠となっている。
つまり、いわゆる「大陸のケルト」のほうであり、ハルシュタット文化など文化名で呼ばれることも多い。一昔前は、そのケルト人がヨーロッパ古代の民とされ、ケルト人がヨーロッパ全体に広がっていった、文化の基礎を広めた、みたいなイメージが持たれていた。
だが、そもそもケルト人と呼ばれている人たちは、自分たちのことを「ケルト」と呼んだだろうか。共通アイデンティティを持つ一つの民族集団と呼んでいいのだろうか。
「そんなものは存在しない、実態はローマから見た蛮族である多民族集団をごっちゃに呼んだものがケルトという名称である」とするのが、いわゆるケルト懐疑論の主要な見方の一つである。
まあさすがにこれは言いすぎだろ、と自分は思う。
アイデンティティまで共通していたかどうかは置いといて、もしケルト人なるものが存在しなかったことになると、ローマが雇った「ケルト人傭兵」なるものは何者だったんだって話しになり、以下のような、ローマ経由でエジプトに来てた人たちが残した明らかにガリア風味の遺物の正体が分からなくなってしまうのだ。
エジプトに来ていたケルト人? ファイユームの盾に秘められたドラマ
https://55096962.seesaa.net/article/201301article_21.html
そして、実際には特定の血筋でなく、内部で文化に差異があったとしても、議論で扱うには都合のよい纏まりとして民族のラベルをつけるくことは良くある。
たとえば「フン族」とか「匈奴」といったラベルもそうで、実情は多数の氏族のまとまりと考えられている。大元の集団と、あとから配下に加わって合流した集団もいたはずで、民族や人種という視点でみればかなり緩い纏まりになる。それでも、ある時代の一つの人間集団を表現するために使いやすいため、このラベルづけは有効とされる。
ただ、ケルト人がブリテン島に大量移住して民族を置き換えた、というような話はもはや信じられてはおらず、「島のケルト」は存在しなかった説が有力になっている。(=今までブリテン島やアイルランドで”ケルト”と呼ばれていたもののラベルの書き換えが進んでいる)
その意味では、ケルト懐疑論の中で述べられている「島のケルトは存在しないのでは」という部分は、実は妥当だと自分は思う。DNAの解析、考古学的な調査の結果は、「追いやられたケルト人が、大陸からブリテン島やアイルランドに渡ってきた」「だからケルト語がそこに残っている」という、かつて語られていた説の終焉を物語っている。
なので、ケルト人という実在した(そして呼び名の元になった古代の)民族の話をするなら島ではなく大陸側に絞って話を進めないといけないのだが、この小論では、後段になってもずっと両者の話を一緒に進めている。
さらに後段は「ケルト人という民族は確かに存在したのだ」と言うために、よりにもよって、ケルト人の住んだとされる範囲の東の端と西の端、つまりはガリア(イベリア半島)とガラティア王国(アナトリア)で共通する習慣があった。という話をしている。
それがタイトルになっている「紛争解決と集会」である。
そして、ケルト人には、紛争解決のために話し合いをする集会システムがあった、と話を進めている。カエサルが「元老院」と書いているシステムがそれである。などと論考を進めていくのだが、そもそもの話として文字記録として記録しているのは全てローマ人である。
なのでローマ人に理解できる概念しか理解されず、ローマ人が知っている単語でしか表現されない。つまり、似た記述になるのは当たり前であり、何の証拠にもならない。
なぜなら、理解の浅い文化に対する解像度が低いため、異なっている細部は理解されないし、正しく表現も出来ないからである。
極端な例で言えば、ローマ人が江戸時代の日本の風習を見て記録した時と、ケルト人の風習を見て記録した時の内容は、たとえ元となる風習が全く異なっていても、ほぼ似通った内容になるはずである。おそらく老中は元老院と書かれ、大名たちは各国の王、将軍は王の中の王くらいの記述になるのだろう。実際には全く違っているにも関わらず、である。
ローマフィルターを通した時点で、その視野はローマナイズされたものであり、ローマ人の知っている単語に当てはめられる。すなわち、似た表現になるのも、共通項があるのも「当然」なのだ。これを根拠とするのはあまりにも、あまりにもヘタを打ちすぎている。史料批判とか史料の使い方を知らない学生みたいなことをやってしまっている。
こんなの文献研究としても考慮すべき事項の初歩では…?
あと、ガラティア人は異文化に触れて次第にローマ化して消滅していくので、ローマに似た風習で動いているのは当たり前なのでは…。
現実問題として、もしケルト人に民族的なアイデンティティがあったのだとしても、元の遺伝情報がある程度均一だったとしても、イベリア半島とアナトリアなんていう距離の離れた場所に移住していれば、逆に、風習や民族習慣は変化するほうが自然ではないだろうか。
文化的な均一性の高い古代エジプト人だって、北部の地中海沿岸と、アフリカ内陸部に近い南端地方では方言や細かな風習、信仰などが異なる。
自然環境の変化による制約は当然受けるだろうし、近隣の他部族や集団からの影響が無いはずもない。変わってないように見えるほうが、むしろおかしい。
その時点でローマフィルターがかかった視点を疑うべきだった。
なお、「広範囲に移住した」「文字記録は主に他者の記したものを使う」という条件なら、先に挙げたフン族や匈奴はもちろん、スキタイ、キンメリア人などの遊牧民・騎馬民族を扱うジャンルではよくある。その場合、他者による文字記録という前提を理解した上で、史料の内容はもっと慎重に検討するのが普通だ。
そうした学究態度と比較すると、ケルト人に対するこの論旨は、ケルト学自体が学問として未成熟なまま、結論ありきで突っ走っているという印象を受けた。今まで「ケルト人とは何者か」「ケルト諸語の起源とは/誰によって使われていた言語なのか」といった根幹部分の議論をおざなりにしてきた弱点がモロに出ていると感じた。
この状況には、少し危機感を持ったほうがいいのでは…。
と、あまりにもスッキリしない内容の論文だったので、より分かりやすいと思われるPDFを置いておく。
ケルト懐疑論についての話はページ番号301「3. ケルト概念の再考」以降である。
https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/report/2-pdf/1_rekishi/1_14.pdf
ケルトという概念は再構築されようとしている。
というか、国家アイデンティティや政治的な目的で利用されてきた近代から脱却し、純粋に学問として成立できるかどうかが、この動きにかかっていると思う。今までの既成概念のまま何とかだましだましやっていこうとすることは、「科学」が誕生したあとも「神秘・オカルト」に留まり続けた者たちと同じ道を歩むことになるのではないか。
最低でも、「古代人としてのケルト人」と「言語としてのケルト語」の間に直接的な繋がりが無い or かなり薄い ことは認めた上で、まず切り離して議論するところから始めないと、何一つ明らかに出来ないまま”幻想”の学問を続けることになると思う。
******
余談だが、私の持論として、元の集団から離れて距離の離れた場所に移住した民族集団が、最後まで意地でも守り通す風習は、「紛争解決のやり方」とか「議会制度」とかではなく、日常生活の習慣だろうと思っている。
これは、かつて世界中に移住していった日本人移民団が証明している。
土着民の言語を覚え、混血し、同化していく中で、彼らが最後までこだわったのは「風呂」である。ハワイでも、南米各国でも、そして今は南極でも、日本人はひたすら「風呂」にこだわり、なんとかして風呂に入ろうとする。カナダで発掘された日本人移民の住居跡でも、そこを日本たらしめたものは「風呂遺跡」であった。
カナダの森で戦前の日系入植者の集落跡が発見される。この遺物、見たことある…!
https://55096962.seesaa.net/article/201909article_1.html
こういうのが、民族アイデンティティというものではないだろうか。
同時に、我々を日本人たらしめている文化とは何なのか、という話である。同じようにケルト人にも、ケルトたらしめる何かがあったのではないだろうか。
それが必ずしも形として残っているとは限らないのが難しいところだが、遠く離れた地域の集団に共通項を探すなら、記録者フィルターのかかった文献資料ではなく、考古学遺物や遺跡にするべきだったと思う。
が、この論文の内容が、ほんとに複数人の学者で査読してこれなのか??? と思う内容で、疑問ばかりが湧いてくるものだったので、自分の考えをまとめておこうと思う。
この論文は前段と後段の二段構えになっている。
前段: ケルト懐疑論の創始者についての考察 (※島のケルトに特化している)
後段: 広範囲に移住していた古代のケルトを民族と呼べるだけの共通点はあったのか (※古代のケルト人は大陸ケルト)
この時点でデカいツッコミどころがある。
そう、なんで前段と後段で「島のケルト」と「大陸のケルト」の話をしているのか、という点だ。
既にひとつ前の記事に書いたとおり、両者は別ものであり、繋がりがあるとは言えなくなっている。そしてケルト懐疑論とは、まさにこの部分に対するツッコミなのだ。ケルト懐疑論について書くのなら両者を何の注釈もなく混同してはならない。真摯に向き合い評価べき部分について、いきなり第一章から有耶無耶にしようとしていることも、この本を「期待外れ」と評価した大きな要員である。
後段の話をメインとしたいのなら、前段部分で言及する内容は大陸側の考古学的な民族概念としてのケルトに絞るか、ケルト懐疑論の概要だけ触れて後段にページを割くべきだったのでは?と思う。
だが、なぜかこの構成が受け入れられてしまっているので、首をひねりつつも話を進める。
後段へのツッコミに行く前に、前提となる概要をさらっと流しておく。
古代のケルト人、つまり考古学的な意味でのケルトという概念は、自称ではなく他称になる。そしてローマ人が書いた記録が名称の根拠となっている。
つまり、いわゆる「大陸のケルト」のほうであり、ハルシュタット文化など文化名で呼ばれることも多い。一昔前は、そのケルト人がヨーロッパ古代の民とされ、ケルト人がヨーロッパ全体に広がっていった、文化の基礎を広めた、みたいなイメージが持たれていた。
だが、そもそもケルト人と呼ばれている人たちは、自分たちのことを「ケルト」と呼んだだろうか。共通アイデンティティを持つ一つの民族集団と呼んでいいのだろうか。
「そんなものは存在しない、実態はローマから見た蛮族である多民族集団をごっちゃに呼んだものがケルトという名称である」とするのが、いわゆるケルト懐疑論の主要な見方の一つである。
まあさすがにこれは言いすぎだろ、と自分は思う。
アイデンティティまで共通していたかどうかは置いといて、もしケルト人なるものが存在しなかったことになると、ローマが雇った「ケルト人傭兵」なるものは何者だったんだって話しになり、以下のような、ローマ経由でエジプトに来てた人たちが残した明らかにガリア風味の遺物の正体が分からなくなってしまうのだ。
エジプトに来ていたケルト人? ファイユームの盾に秘められたドラマ
https://55096962.seesaa.net/article/201301article_21.html
そして、実際には特定の血筋でなく、内部で文化に差異があったとしても、議論で扱うには都合のよい纏まりとして民族のラベルをつけるくことは良くある。
たとえば「フン族」とか「匈奴」といったラベルもそうで、実情は多数の氏族のまとまりと考えられている。大元の集団と、あとから配下に加わって合流した集団もいたはずで、民族や人種という視点でみればかなり緩い纏まりになる。それでも、ある時代の一つの人間集団を表現するために使いやすいため、このラベルづけは有効とされる。
ただ、ケルト人がブリテン島に大量移住して民族を置き換えた、というような話はもはや信じられてはおらず、「島のケルト」は存在しなかった説が有力になっている。(=今までブリテン島やアイルランドで”ケルト”と呼ばれていたもののラベルの書き換えが進んでいる)
その意味では、ケルト懐疑論の中で述べられている「島のケルトは存在しないのでは」という部分は、実は妥当だと自分は思う。DNAの解析、考古学的な調査の結果は、「追いやられたケルト人が、大陸からブリテン島やアイルランドに渡ってきた」「だからケルト語がそこに残っている」という、かつて語られていた説の終焉を物語っている。
なので、ケルト人という実在した(そして呼び名の元になった古代の)民族の話をするなら島ではなく大陸側に絞って話を進めないといけないのだが、この小論では、後段になってもずっと両者の話を一緒に進めている。
さらに後段は「ケルト人という民族は確かに存在したのだ」と言うために、よりにもよって、ケルト人の住んだとされる範囲の東の端と西の端、つまりはガリア(イベリア半島)とガラティア王国(アナトリア)で共通する習慣があった。という話をしている。
それがタイトルになっている「紛争解決と集会」である。
そして、ケルト人には、紛争解決のために話し合いをする集会システムがあった、と話を進めている。カエサルが「元老院」と書いているシステムがそれである。などと論考を進めていくのだが、そもそもの話として文字記録として記録しているのは全てローマ人である。
なのでローマ人に理解できる概念しか理解されず、ローマ人が知っている単語でしか表現されない。つまり、似た記述になるのは当たり前であり、何の証拠にもならない。
なぜなら、理解の浅い文化に対する解像度が低いため、異なっている細部は理解されないし、正しく表現も出来ないからである。
極端な例で言えば、ローマ人が江戸時代の日本の風習を見て記録した時と、ケルト人の風習を見て記録した時の内容は、たとえ元となる風習が全く異なっていても、ほぼ似通った内容になるはずである。おそらく老中は元老院と書かれ、大名たちは各国の王、将軍は王の中の王くらいの記述になるのだろう。実際には全く違っているにも関わらず、である。
ローマフィルターを通した時点で、その視野はローマナイズされたものであり、ローマ人の知っている単語に当てはめられる。すなわち、似た表現になるのも、共通項があるのも「当然」なのだ。これを根拠とするのはあまりにも、あまりにもヘタを打ちすぎている。史料批判とか史料の使い方を知らない学生みたいなことをやってしまっている。
こんなの文献研究としても考慮すべき事項の初歩では…?
あと、ガラティア人は異文化に触れて次第にローマ化して消滅していくので、ローマに似た風習で動いているのは当たり前なのでは…。
現実問題として、もしケルト人に民族的なアイデンティティがあったのだとしても、元の遺伝情報がある程度均一だったとしても、イベリア半島とアナトリアなんていう距離の離れた場所に移住していれば、逆に、風習や民族習慣は変化するほうが自然ではないだろうか。
文化的な均一性の高い古代エジプト人だって、北部の地中海沿岸と、アフリカ内陸部に近い南端地方では方言や細かな風習、信仰などが異なる。
自然環境の変化による制約は当然受けるだろうし、近隣の他部族や集団からの影響が無いはずもない。変わってないように見えるほうが、むしろおかしい。
その時点でローマフィルターがかかった視点を疑うべきだった。
なお、「広範囲に移住した」「文字記録は主に他者の記したものを使う」という条件なら、先に挙げたフン族や匈奴はもちろん、スキタイ、キンメリア人などの遊牧民・騎馬民族を扱うジャンルではよくある。その場合、他者による文字記録という前提を理解した上で、史料の内容はもっと慎重に検討するのが普通だ。
そうした学究態度と比較すると、ケルト人に対するこの論旨は、ケルト学自体が学問として未成熟なまま、結論ありきで突っ走っているという印象を受けた。今まで「ケルト人とは何者か」「ケルト諸語の起源とは/誰によって使われていた言語なのか」といった根幹部分の議論をおざなりにしてきた弱点がモロに出ていると感じた。
この状況には、少し危機感を持ったほうがいいのでは…。
と、あまりにもスッキリしない内容の論文だったので、より分かりやすいと思われるPDFを置いておく。
ケルト懐疑論についての話はページ番号301「3. ケルト概念の再考」以降である。
https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/report/2-pdf/1_rekishi/1_14.pdf
ケルトという概念は再構築されようとしている。
というか、国家アイデンティティや政治的な目的で利用されてきた近代から脱却し、純粋に学問として成立できるかどうかが、この動きにかかっていると思う。今までの既成概念のまま何とかだましだましやっていこうとすることは、「科学」が誕生したあとも「神秘・オカルト」に留まり続けた者たちと同じ道を歩むことになるのではないか。
最低でも、「古代人としてのケルト人」と「言語としてのケルト語」の間に直接的な繋がりが無い or かなり薄い ことは認めた上で、まず切り離して議論するところから始めないと、何一つ明らかに出来ないまま”幻想”の学問を続けることになると思う。
******
余談だが、私の持論として、元の集団から離れて距離の離れた場所に移住した民族集団が、最後まで意地でも守り通す風習は、「紛争解決のやり方」とか「議会制度」とかではなく、日常生活の習慣だろうと思っている。
これは、かつて世界中に移住していった日本人移民団が証明している。
土着民の言語を覚え、混血し、同化していく中で、彼らが最後までこだわったのは「風呂」である。ハワイでも、南米各国でも、そして今は南極でも、日本人はひたすら「風呂」にこだわり、なんとかして風呂に入ろうとする。カナダで発掘された日本人移民の住居跡でも、そこを日本たらしめたものは「風呂遺跡」であった。
カナダの森で戦前の日系入植者の集落跡が発見される。この遺物、見たことある…!
https://55096962.seesaa.net/article/201909article_1.html
こういうのが、民族アイデンティティというものではないだろうか。
同時に、我々を日本人たらしめている文化とは何なのか、という話である。同じようにケルト人にも、ケルトたらしめる何かがあったのではないだろうか。
それが必ずしも形として残っているとは限らないのが難しいところだが、遠く離れた地域の集団に共通項を探すなら、記録者フィルターのかかった文献資料ではなく、考古学遺物や遺跡にするべきだったと思う。