数少ないウラルトゥ専門書「埋もれた古代王国の謎―幻の国ウラルトゥを探る」
ここまでの流れ→トルコの博物館にあったウラルトゥの遺物が全然わからんかったので履修しよう
というわけで、図書館でウラルトゥの本を探してきた。出版は1981年。古い! でもこれしかない。ヒッタイトもアッシリアも最近ようやくわかりやすい入門書が出たばかりの本邦、ウラルトゥの本はまだ誰も手をつけていないのだろう…。
写真はたくさん載っていたので、そこは良かった。

で、まずこの本を読んで驚いたのが、ウラルトゥはアルメニアの国、もっと言うと「ザカフカス」の国、という言葉が出てきたことである。
そしてソ連が研究しているという。
アルメニアがかつてソ連の一部だったことは知っていたが、そもそもウラルトゥの研究を最初の始めたのがソ連だったというのは認識していなかった。

ウラルトゥの主要遺跡であるカルミル・ブルルの発掘は1939年に始まっている。ザカフカス連邦はすでに無い。とはいえ、本の出た時期にはまだソ連はあり、アルメニアはソビエト連邦の一部であった。ウラルトゥの古い資料はすべてロシア語なのだ。そして、この本はロシア語から翻訳されているのだった。カタカナ表記が、ロシア語訛りと思われる馴染みのないものになっている。
ロシアの研究者が研究しているので、ウラルトゥは「アルメニアの古代文明」という扱いである。トルコ側(オスマントルコ領土)の情報は出てこない。
そして、トルコ側の情報が無いということは、ヒッタイトに関する記述も一切出てこないのである。。
ウラルトゥは「アッシリアのライバル」であり、アッシリア側の資料への言及はたくさん出てくるのに、ウラルトゥより前に栄えたヒッタイト帝国、そしてウラルトゥの時代にまだ命脈を保っていたはずのシリアの新ヒッタイトについては何も書かれていない。
ヒッタイト帝国は、存在そのものが長らく忘れ去られていた国で、「再」発見は1907年である。楔形文字の解読などが進み、1940年代なら既にある程度の情報が知られていたはずだ。なのに出てこないのは、当時の政治的な制約から、国境の向こう側の情報は何も無かったことを意味していると思う。1940年といえば第二次世界大戦の真っ最中。戦争が終わってからも情勢はそう簡単に安定しないし、本の出た1981年という年代だけ考えても東西冷戦のど真ん中である。ロシア人がトルコ側の遺跡を発掘することはまずムリだっただろう。
それに、もしかしたら、ウラルトゥと新ヒッタイトの同盟関係や、隣接する地域にヒッタイトの末裔がいたことは、まだ専門家の間でもあまり知られていなかったのかもしれない。当時ヒッタイト研究の最前線にいたのがドイツの研究者だったので、仲が悪くて情報共有があまりされていなかった可能性もありそうだなと思った。アッシリア・スキタイ・メディア王国への言及はかなりあり、一部エジプトなども出てくるのに、ヒッタイトが全スルーなのだ。これは、なかなか面白い現象だなと思った。
で、本の内容なのだが…まあ、古いぶん、情報としてはちょっと古い。ただ、この時代でもう、いま知られている、ほとんどの情報は出揃っている。逆に言えば、トルコ側の情報なしでアルメニアの遺跡だけでウラルトゥという古代王国の概要は分かっている。
これは、文字資料が揃っていて楔形文字が順調に解読出来たことと、主要な遺跡がアルメニア側にあったからかなと思う。
ソ連時代の発掘でかなりの数の粘土板が発掘され、解読されて、アッシリアの記録と突き合わせて王名表や年代表もだいたい出来上がっている状態だった。

ただ、「アルメニアの古代の歴史」とされ、ウラルトゥがアルメニア史の古代に組み込まれているのは、ん?って思ってしまった。いや間違いではない、間違いではないんだけど…トルコじゃなくてアルメニアの祖先扱いになるんだ…? という。
アルメニア人の故郷は、アララト山のふもとのヴァン湖あたりだと考えられているのだが、現代の国境線だとヴァン湖はトルコ側になる。そう、ここ、トルコとアルメニアの帰属問題でモメているあたりなのだ。
とすると、近代の国境問題が古代史の研究に影を落としているのではないかと推測される。トルコの博物館が大々的にウラルトゥの遺物を「自国の歴史」に組み込んで博物館に展示するのも、実際にはアルメニア側に貴重な遺物が保管されていて研究に歴史があるのも、意味が分かると納得する。
話を元に戻すと、現代の国境で考えるなら、トルコ、イラン、アルメニア、アゼルバイジャン、あとジョージアがウラルトゥのかつての勢力範囲に入るだろうか。アルメニアとアゼルバイジャンも過去の経緯で色々あったところなので、ここも国境をまたいだ研究は出来そうにない。
この国々が協力しあうのは歴史的経緯からしてもかなり難易度の高い話だろうし、ウラルトゥについての包括的な本を書くのなら、無関係な第三国の学者のほうが適切かもしれない。日本とかちょうどいい第三者だと思うんですが…どなたか…いませんかね…(ちらっ
あと、本に載ってたウラルトゥ遺物について。
面白いほどいろんな様式が混じってて、人とモノと文化の交差する場所だったんだなぁということがよく分かる。
これはメソポタミアの伝統的な精霊(アプカル)デザイン。ヒッタイトでも採用されていたアッシリアの太陽円盤が載っている。
小箱の形や様式は他ではあまり見ないタイプ。

このとんがり帽子は、ヒッタイトの壁画で神様たちが被ってたりするやつ。えらい人の帽子。

この一本角の牛はインダス文明の印章でよく見かけるやつなので、おそらくインド風。イラン高原経由でデザインが伝わったりかなと思う。

ヒッタイト風らいおん。アッシリア風味もちょっと混じっている。
というかヒッタイト美術と見比べるとすごいよく似ているところがあるので、確実に影響受けてそうだ。これを博物館でノーヒントで出されて見分けつくか? って言われると、ちょっと今の自分には厳しいかもしれない…。
また次回に向けて! 修行しておきます!

というわけで、図書館でウラルトゥの本を探してきた。出版は1981年。古い! でもこれしかない。ヒッタイトもアッシリアも最近ようやくわかりやすい入門書が出たばかりの本邦、ウラルトゥの本はまだ誰も手をつけていないのだろう…。
写真はたくさん載っていたので、そこは良かった。
で、まずこの本を読んで驚いたのが、ウラルトゥはアルメニアの国、もっと言うと「ザカフカス」の国、という言葉が出てきたことである。
そしてソ連が研究しているという。
アルメニアがかつてソ連の一部だったことは知っていたが、そもそもウラルトゥの研究を最初の始めたのがソ連だったというのは認識していなかった。

ウラルトゥの主要遺跡であるカルミル・ブルルの発掘は1939年に始まっている。ザカフカス連邦はすでに無い。とはいえ、本の出た時期にはまだソ連はあり、アルメニアはソビエト連邦の一部であった。ウラルトゥの古い資料はすべてロシア語なのだ。そして、この本はロシア語から翻訳されているのだった。カタカナ表記が、ロシア語訛りと思われる馴染みのないものになっている。
ロシアの研究者が研究しているので、ウラルトゥは「アルメニアの古代文明」という扱いである。トルコ側(オスマントルコ領土)の情報は出てこない。
そして、トルコ側の情報が無いということは、ヒッタイトに関する記述も一切出てこないのである。。
ウラルトゥは「アッシリアのライバル」であり、アッシリア側の資料への言及はたくさん出てくるのに、ウラルトゥより前に栄えたヒッタイト帝国、そしてウラルトゥの時代にまだ命脈を保っていたはずのシリアの新ヒッタイトについては何も書かれていない。
ヒッタイト帝国は、存在そのものが長らく忘れ去られていた国で、「再」発見は1907年である。楔形文字の解読などが進み、1940年代なら既にある程度の情報が知られていたはずだ。なのに出てこないのは、当時の政治的な制約から、国境の向こう側の情報は何も無かったことを意味していると思う。1940年といえば第二次世界大戦の真っ最中。戦争が終わってからも情勢はそう簡単に安定しないし、本の出た1981年という年代だけ考えても東西冷戦のど真ん中である。ロシア人がトルコ側の遺跡を発掘することはまずムリだっただろう。
それに、もしかしたら、ウラルトゥと新ヒッタイトの同盟関係や、隣接する地域にヒッタイトの末裔がいたことは、まだ専門家の間でもあまり知られていなかったのかもしれない。当時ヒッタイト研究の最前線にいたのがドイツの研究者だったので、仲が悪くて情報共有があまりされていなかった可能性もありそうだなと思った。アッシリア・スキタイ・メディア王国への言及はかなりあり、一部エジプトなども出てくるのに、ヒッタイトが全スルーなのだ。これは、なかなか面白い現象だなと思った。
で、本の内容なのだが…まあ、古いぶん、情報としてはちょっと古い。ただ、この時代でもう、いま知られている、ほとんどの情報は出揃っている。逆に言えば、トルコ側の情報なしでアルメニアの遺跡だけでウラルトゥという古代王国の概要は分かっている。
これは、文字資料が揃っていて楔形文字が順調に解読出来たことと、主要な遺跡がアルメニア側にあったからかなと思う。
ソ連時代の発掘でかなりの数の粘土板が発掘され、解読されて、アッシリアの記録と突き合わせて王名表や年代表もだいたい出来上がっている状態だった。
ただ、「アルメニアの古代の歴史」とされ、ウラルトゥがアルメニア史の古代に組み込まれているのは、ん?って思ってしまった。いや間違いではない、間違いではないんだけど…トルコじゃなくてアルメニアの祖先扱いになるんだ…? という。
アルメニア人の故郷は、アララト山のふもとのヴァン湖あたりだと考えられているのだが、現代の国境線だとヴァン湖はトルコ側になる。そう、ここ、トルコとアルメニアの帰属問題でモメているあたりなのだ。
とすると、近代の国境問題が古代史の研究に影を落としているのではないかと推測される。トルコの博物館が大々的にウラルトゥの遺物を「自国の歴史」に組み込んで博物館に展示するのも、実際にはアルメニア側に貴重な遺物が保管されていて研究に歴史があるのも、意味が分かると納得する。
話を元に戻すと、現代の国境で考えるなら、トルコ、イラン、アルメニア、アゼルバイジャン、あとジョージアがウラルトゥのかつての勢力範囲に入るだろうか。アルメニアとアゼルバイジャンも過去の経緯で色々あったところなので、ここも国境をまたいだ研究は出来そうにない。
この国々が協力しあうのは歴史的経緯からしてもかなり難易度の高い話だろうし、ウラルトゥについての包括的な本を書くのなら、無関係な第三国の学者のほうが適切かもしれない。日本とかちょうどいい第三者だと思うんですが…どなたか…いませんかね…(ちらっ
あと、本に載ってたウラルトゥ遺物について。
面白いほどいろんな様式が混じってて、人とモノと文化の交差する場所だったんだなぁということがよく分かる。
これはメソポタミアの伝統的な精霊(アプカル)デザイン。ヒッタイトでも採用されていたアッシリアの太陽円盤が載っている。
小箱の形や様式は他ではあまり見ないタイプ。
このとんがり帽子は、ヒッタイトの壁画で神様たちが被ってたりするやつ。えらい人の帽子。
この一本角の牛はインダス文明の印章でよく見かけるやつなので、おそらくインド風。イラン高原経由でデザインが伝わったりかなと思う。
ヒッタイト風らいおん。アッシリア風味もちょっと混じっている。
というかヒッタイト美術と見比べるとすごいよく似ているところがあるので、確実に影響受けてそうだ。これを博物館でノーヒントで出されて見分けつくか? って言われると、ちょっと今の自分には厳しいかもしれない…。
また次回に向けて! 修行しておきます!