ガリポリの戦いと「トルコ史テーゼ」、そして「トルコ人は古代文明の祖」という概念について
少し前にトルコのマルマラ海沿いの街チャナッカレに行った。
お目当てはヒサルルクの丘(通称:トロイ遺跡)だったのだが、街には古い戦車や大砲が飾られており、戦争博物館や戦死者の慰霊碑なども建てられていた。

バスの時間調整のため、その大砲とかをなんとなーく眺めて居た時に、地元民ぽいおじさんに話しかけられた。
こちらが日本人で、ある程度歴史を知ってそうだと分かるとおもむろに話しはじめたのは、イギリスのクソ野郎についての悪口である。曰く、侵略者イギリスが攻め込んできてトルコをバラバラにしようとした。アタテュルクが頑張って追い払わなかったらどうなっていたことか分からない。うちのじいさまも戦いに参加していた…云々。
おそらく、ガリポリの戦いの話である。
第一次世界大戦中、弱体化したオスマントルコを植民地として切り分けるべく、イギリスをはじめとする列強が勝手に条約を結ぶ。しかも勝手に沿岸部をギリシャに与えてしまったのだが、アタテュルクをはじめとする兵士たちの奮闘により撃退、祖国解放戦争に勝利してトルコ共和国を建国する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
アタテュルクが「アタテュルク」=国の父という称号を貰ったのも、その功績による。
遺跡巡りのことしか頭になく、近代の戦争遺跡のことまで調べていなかったのだが、どうやらチャナッカレは、この戦いにおける記念碑が国内的な観光名所となっている街だったらしい。
で、翻訳アプリとカタコトの英語で話を聞いているうちに、ふと出てきた言葉が気になった。
「アタテュルクは国と歴史を作った」
→もしかして、汎トルコ主義のこと言ってる…?
汎トルコ(テュルク)主義というのは、テュルク系言語を使う民族はすべてテュルクの系譜に属するもので、偉大なるテュルク民族によってユーラシア大陸の歴史が築かれてきた、とする、だいぶ壮大な思想である。トルコ国民はその偉大なる民族の末裔であり、優れた優等種族であるといる。
トルコが近代国家を建国する際に、国是として掲げた思想の一つでもある。(日本で言う「八紘一宇」の思想に近い)
実は、前回のトルコ訪問の時に、現代トルコでもこれが生き残っているのを見て衝撃を受けたのだ。
フン族も突厥もエフタルも、テュルク語系を使っていたと考えられる騎馬民族はみーんなトルコの偉大なる祖先!
衝撃のトルコ軍事博物館◆トルコに行ったら、アッティラがトルコ人の祖先扱いになっていた。
https://55096962.seesaa.net/article/201208article_11.html
「テュルク系民族」の歴史と広がり~中央アジアから西の果てまで。
https://55096962.seesaa.net/article/201811article_24.html
一般書では、「汎トルコ主義をいまだに信じている人は多くない」「定着はしていない」と書かれているが、トルコの現職エルドアン大統領はわりとまじめに、この思想を国外に喧伝している。そして、おじさんの口からそれらしい言葉が出てきたことで、実際にこの考え方を受け入れているらしい人もいることが分かった。
さらに気がついたのは、この「汎トルコ主義」とか「トルコ史テーゼ」と呼ばれるものは、オスマン帝国が侵略され、解体されようとしていた19世紀に、侵略者側のヨーロッパ列強が信じていた「アーリア人至上主義」に対抗するための手段でもあった、ということだ。
これは「植民地主義と歴史学 そのまなざしが残したもの(刀水書房)」という、わりと古い本の中に資料があった。
当時の(そして一部は今も)ヨーロッパは、ギリシャ文明を至高の存在とし、その末裔である自分たちを優れたものと認識していた。劣等種族のアジア人の末裔であるトルコ人は蛮族であり、オスマントルコは蛮族の国だと見下していたのである。
これに対抗するため、新生のトルコ共和国は、近代国家として自らの歴史を主張し、古い祖先を引っ張り出して国をまとめられるだけの権威を持つストーリーをつくりあげなければならなかった。
京都で開催中の「美のるつぼ」展には、日本が美術史を編纂し、技工を凝らした一級品の芸術をパリ万博に出展して、日本には誇れる文化と歴史があるのだと知らしめようとしたという内容の展示があった。
トルコの場合は、美術品ではなく古い歴史遺物と、祖先たちの業績によってヨーロッパに対峙した。ヒッタイト時代の遺跡・遺物は、その筆頭だったのだ。
つまり、トルコ政府がヒッタイトの発掘に力を入れるのも、ヨーロッパ以外の国(具体的に日本)に発掘件を好意的に与えてくれるのも、そのあたりに理由があるかもしれない。
またアンカラのアナトリア考古学博物館の展示物に、ヒッタイトをはじめとする「より古い」時代の遺物が大々的に飾られ、どちらかというとアルメニア寄りの古代文明であるウラルトゥも自国の歴史として組み込んでいるのも、博物館を、「自国の文化と歴史の長さ、価値を対外的に誇るための装置」と位置づけているからなのだろう。
なお、博物館で自国の歴史遺物をメインに展示するのは後発の文明国の特徴とされ、先発かつ植民地主義で運営されてきたヨーロッパ列強では、自分たちが支配した植民地の歴史遺物をメインに展示する傾向があるようだ。大英博物館などはその典型パターンであり、イギリス自体の歴史ではなく、イギリスの支配領土の広さを誇っている。
ヨーロッパの中でも列強とまではいかず、近代においては後塵を拝していた北欧や、特に対ロシアで自国の歴史を強調しなければ生き残れなかったフィンランドでは、自国の歴史を博物館の展示物のメインに据える傾向がある。
さらに調べていて興味深かったのは、アタテュルクが最初に掲げたトルコの「汎トルコ主義」、「トルコ史テーゼ」の中に、メソポタミア文明もトルコ人の祖先の築いたものとして入っていることだ。
より具体的には、出自不明のシュメール人は実はテュルク系民族で、中央アジアを発して各地に散っていった祖先たちの一派がメソポタミアに至り、世界最古の文明を築いたことになっている。で、それ以降にメソポタミアに興る文明はすべてトルコ人の業績にされ、エジプト文明の萌芽も育てたことになっている。
いや、さすがにこれは無茶だろ…と思うのだが、やってることを見ていくと、当時のヨーロッパ人がブチ挙げた、アーリア人種優生説のほぼ裏返しになっている。
アーリア人種という概念は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話す者すべてが同じ民族を祖とする血族であると想定することから始まった。
同じように、テュルク人種という概念は、その裏返しでテュルク系言語を話す者すべてが同じ祖から発したと考えている。(なので、遠縁にあたるフィン語を使うフィンランドや、言語構造の似た日本語を話す日本ですら、その系譜に属することにされてしまう)
そして、アーリア人至上主義の時代には、エジプト文明は外からやって来た白人系の優生人種がファラオとなることで始まった、という説が、堂々と語られていたものだ。
汎トルコ主義もだいぶ無茶な概念なのだが、当時のヨーロッパの無茶を学んだ上で対抗しようとして捻り出された概念だと考えると、方向性は理解できる。どちらも根拠が薄く、どちらも同じくらいファンタジーなのだ。
++++++
というわけで、海辺の町での何気ない会話から、ずいぶん遠くまで来てしまった。
改めて調べてみた結果、色んなものが自分の中で繋がった。
旅はいいぞ、芋づる式に知りたいことが出て来るから。今までの経験や知識が、思いがけないところで繋がることもあるから。
お目当てはヒサルルクの丘(通称:トロイ遺跡)だったのだが、街には古い戦車や大砲が飾られており、戦争博物館や戦死者の慰霊碑なども建てられていた。

バスの時間調整のため、その大砲とかをなんとなーく眺めて居た時に、地元民ぽいおじさんに話しかけられた。
こちらが日本人で、ある程度歴史を知ってそうだと分かるとおもむろに話しはじめたのは、イギリスのクソ野郎についての悪口である。曰く、侵略者イギリスが攻め込んできてトルコをバラバラにしようとした。アタテュルクが頑張って追い払わなかったらどうなっていたことか分からない。うちのじいさまも戦いに参加していた…云々。
おそらく、ガリポリの戦いの話である。
第一次世界大戦中、弱体化したオスマントルコを植民地として切り分けるべく、イギリスをはじめとする列強が勝手に条約を結ぶ。しかも勝手に沿岸部をギリシャに与えてしまったのだが、アタテュルクをはじめとする兵士たちの奮闘により撃退、祖国解放戦争に勝利してトルコ共和国を建国する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
アタテュルクが「アタテュルク」=国の父という称号を貰ったのも、その功績による。
遺跡巡りのことしか頭になく、近代の戦争遺跡のことまで調べていなかったのだが、どうやらチャナッカレは、この戦いにおける記念碑が国内的な観光名所となっている街だったらしい。
で、翻訳アプリとカタコトの英語で話を聞いているうちに、ふと出てきた言葉が気になった。
「アタテュルクは国と歴史を作った」
→もしかして、汎トルコ主義のこと言ってる…?
汎トルコ(テュルク)主義というのは、テュルク系言語を使う民族はすべてテュルクの系譜に属するもので、偉大なるテュルク民族によってユーラシア大陸の歴史が築かれてきた、とする、だいぶ壮大な思想である。トルコ国民はその偉大なる民族の末裔であり、優れた優等種族であるといる。
トルコが近代国家を建国する際に、国是として掲げた思想の一つでもある。(日本で言う「八紘一宇」の思想に近い)
実は、前回のトルコ訪問の時に、現代トルコでもこれが生き残っているのを見て衝撃を受けたのだ。
フン族も突厥もエフタルも、テュルク語系を使っていたと考えられる騎馬民族はみーんなトルコの偉大なる祖先!
衝撃のトルコ軍事博物館◆トルコに行ったら、アッティラがトルコ人の祖先扱いになっていた。
https://55096962.seesaa.net/article/201208article_11.html
「テュルク系民族」の歴史と広がり~中央アジアから西の果てまで。
https://55096962.seesaa.net/article/201811article_24.html
一般書では、「汎トルコ主義をいまだに信じている人は多くない」「定着はしていない」と書かれているが、トルコの現職エルドアン大統領はわりとまじめに、この思想を国外に喧伝している。そして、おじさんの口からそれらしい言葉が出てきたことで、実際にこの考え方を受け入れているらしい人もいることが分かった。
さらに気がついたのは、この「汎トルコ主義」とか「トルコ史テーゼ」と呼ばれるものは、オスマン帝国が侵略され、解体されようとしていた19世紀に、侵略者側のヨーロッパ列強が信じていた「アーリア人至上主義」に対抗するための手段でもあった、ということだ。
これは「植民地主義と歴史学 そのまなざしが残したもの(刀水書房)」という、わりと古い本の中に資料があった。
当時の(そして一部は今も)ヨーロッパは、ギリシャ文明を至高の存在とし、その末裔である自分たちを優れたものと認識していた。劣等種族のアジア人の末裔であるトルコ人は蛮族であり、オスマントルコは蛮族の国だと見下していたのである。
これに対抗するため、新生のトルコ共和国は、近代国家として自らの歴史を主張し、古い祖先を引っ張り出して国をまとめられるだけの権威を持つストーリーをつくりあげなければならなかった。
京都で開催中の「美のるつぼ」展には、日本が美術史を編纂し、技工を凝らした一級品の芸術をパリ万博に出展して、日本には誇れる文化と歴史があるのだと知らしめようとしたという内容の展示があった。
トルコの場合は、美術品ではなく古い歴史遺物と、祖先たちの業績によってヨーロッパに対峙した。ヒッタイト時代の遺跡・遺物は、その筆頭だったのだ。
つまり、トルコ政府がヒッタイトの発掘に力を入れるのも、ヨーロッパ以外の国(具体的に日本)に発掘件を好意的に与えてくれるのも、そのあたりに理由があるかもしれない。
またアンカラのアナトリア考古学博物館の展示物に、ヒッタイトをはじめとする「より古い」時代の遺物が大々的に飾られ、どちらかというとアルメニア寄りの古代文明であるウラルトゥも自国の歴史として組み込んでいるのも、博物館を、「自国の文化と歴史の長さ、価値を対外的に誇るための装置」と位置づけているからなのだろう。
なお、博物館で自国の歴史遺物をメインに展示するのは後発の文明国の特徴とされ、先発かつ植民地主義で運営されてきたヨーロッパ列強では、自分たちが支配した植民地の歴史遺物をメインに展示する傾向があるようだ。大英博物館などはその典型パターンであり、イギリス自体の歴史ではなく、イギリスの支配領土の広さを誇っている。
ヨーロッパの中でも列強とまではいかず、近代においては後塵を拝していた北欧や、特に対ロシアで自国の歴史を強調しなければ生き残れなかったフィンランドでは、自国の歴史を博物館の展示物のメインに据える傾向がある。
さらに調べていて興味深かったのは、アタテュルクが最初に掲げたトルコの「汎トルコ主義」、「トルコ史テーゼ」の中に、メソポタミア文明もトルコ人の祖先の築いたものとして入っていることだ。
より具体的には、出自不明のシュメール人は実はテュルク系民族で、中央アジアを発して各地に散っていった祖先たちの一派がメソポタミアに至り、世界最古の文明を築いたことになっている。で、それ以降にメソポタミアに興る文明はすべてトルコ人の業績にされ、エジプト文明の萌芽も育てたことになっている。
いや、さすがにこれは無茶だろ…と思うのだが、やってることを見ていくと、当時のヨーロッパ人がブチ挙げた、アーリア人種優生説のほぼ裏返しになっている。
アーリア人種という概念は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話す者すべてが同じ民族を祖とする血族であると想定することから始まった。
同じように、テュルク人種という概念は、その裏返しでテュルク系言語を話す者すべてが同じ祖から発したと考えている。(なので、遠縁にあたるフィン語を使うフィンランドや、言語構造の似た日本語を話す日本ですら、その系譜に属することにされてしまう)
そして、アーリア人至上主義の時代には、エジプト文明は外からやって来た白人系の優生人種がファラオとなることで始まった、という説が、堂々と語られていたものだ。
汎トルコ主義もだいぶ無茶な概念なのだが、当時のヨーロッパの無茶を学んだ上で対抗しようとして捻り出された概念だと考えると、方向性は理解できる。どちらも根拠が薄く、どちらも同じくらいファンタジーなのだ。
++++++
というわけで、海辺の町での何気ない会話から、ずいぶん遠くまで来てしまった。
改めて調べてみた結果、色んなものが自分の中で繋がった。
旅はいいぞ、芋づる式に知りたいことが出て来るから。今までの経験や知識が、思いがけないところで繋がることもあるから。