古代エジプト、下エジプト第19ノモスの都「イメト」の発掘調査について
マンチェスター大学の調査チームが下エジプトの遺跡テル・ネベシャで行った発掘で、かつて州都だった都市イメトの遺構らしきものが色々でてきた、という話があったのでメモがわりに。
The Lost City of Imet Discovered in Egypt
https://colombiaone.com/2025/06/24/lost-city-imet-egypt/

記事タイトルは「失われた都市を発見した」だが、ここは別に失われてはいなくて、現在の街のど真ん中。かつ、最初に発掘したのはフリンダース・ピートリで、昔から遺跡として存在は知られていた。
失われた都市とするならば、末期王朝時代には州都の地位をすぐ北に作られた都市タニスに奪われたこと、紀元前3-4世紀頃、つまりプトレマイオス朝が成立する頃には重要度を失っていたことが理由として挙げられるかもしれない。タニスは、ラメセス2世の作った都市ペル・ラメセスの遺構から石材などを再利用して建造されたことで有名な都市。もしかしたらイメトからも何か流用はしていたかもしれない。
都市の中心には下エジプトの守護女神であるコブラの姿をとるウアジェト女神に捧げられた神殿の遺構があり、街の守護神トリアドはウアジェト、ミン、ホルスの三神だったらしい。
場所はココ。ナイルデルタの東の方である。

で、今回見つかったのは、家屋の一部、穀物貯蔵庫、家畜小屋など集落の一部で、紀元前4世紀のものらしい。つまり、都市が栄えていた最後の時代の遺構がそのまま埋もれていたということ。
現存する神殿跡も末期王朝のものだし、今回の発掘で出てきたものも末期王朝のものに見えるので、見つかったものをとりあえずプレスリリース出しました的な感じなのかなと思う。
記事の中でちょっと情報不足だなぁと思うのは、この街が交易都市として栄えていた…という話を出しているわりに、衰退した理由を書いていないこと。時期からして、おそらく、「デルタ西部のアレキサンドリアが水路を使う主要な交易都市になり、ナイル川の西側の支流が重要視される一方、東側の支流は重要度が下がったから」、もしくは、ペル・ラメセスが放棄された時のように「東側の支流の流れが変わったから」ではないかと思うが、はっきり書いていない。
いやまずそこ調べようよ。土壌調査か出土品の質、人口密度の変化あたり調べれば見当がつくよ。
ナイルの支流がちょいちょい位置を変えていたことについては、既に先行研究が色々出ている。当然、川沿いの街の繁栄と衰退は川の流れにかかっている。
そもそも、このイメトの街のある場所より北側は、初期王朝時代の頃はまだ低湿地で、人が住むのはギリギリの場所だったと思われる。ナイルの支流が土を運んでちょっとずつ海岸線が後退し、新王国時代の頃には水に沈むことが無くなっていたのだと思う。街が本格的に作られ始めたのが新王国時代の頃というのは、それまではガッチリ神殿とか作れる土地が無かったのではないかと思う。
ナイルデルタの場合、街が築かれる最初の条件は、「水没しない、安定して居住できる高台がある」ことなのだから。
古代エジプト、ナイル下流はある時点まで人口が少なかった? 洪水デバフの威力とは
https://55096962.seesaa.net/article/503068544.html
というわけで、調査もうちょっと進めてもらわないとイメトの街の歴史について語るには微妙だなとは思ったが、こんな街のド真ん中な遺跡でもまだ遺物とか出てくるんだなっていうのはちょっとおもしろかった。
エジプトさん、昔からある高台掘ったらだいたいなんか出てくる。そんな国。
The Lost City of Imet Discovered in Egypt
https://colombiaone.com/2025/06/24/lost-city-imet-egypt/
記事タイトルは「失われた都市を発見した」だが、ここは別に失われてはいなくて、現在の街のど真ん中。かつ、最初に発掘したのはフリンダース・ピートリで、昔から遺跡として存在は知られていた。
失われた都市とするならば、末期王朝時代には州都の地位をすぐ北に作られた都市タニスに奪われたこと、紀元前3-4世紀頃、つまりプトレマイオス朝が成立する頃には重要度を失っていたことが理由として挙げられるかもしれない。タニスは、ラメセス2世の作った都市ペル・ラメセスの遺構から石材などを再利用して建造されたことで有名な都市。もしかしたらイメトからも何か流用はしていたかもしれない。
都市の中心には下エジプトの守護女神であるコブラの姿をとるウアジェト女神に捧げられた神殿の遺構があり、街の守護神トリアドはウアジェト、ミン、ホルスの三神だったらしい。
場所はココ。ナイルデルタの東の方である。
で、今回見つかったのは、家屋の一部、穀物貯蔵庫、家畜小屋など集落の一部で、紀元前4世紀のものらしい。つまり、都市が栄えていた最後の時代の遺構がそのまま埋もれていたということ。
現存する神殿跡も末期王朝のものだし、今回の発掘で出てきたものも末期王朝のものに見えるので、見つかったものをとりあえずプレスリリース出しました的な感じなのかなと思う。
記事の中でちょっと情報不足だなぁと思うのは、この街が交易都市として栄えていた…という話を出しているわりに、衰退した理由を書いていないこと。時期からして、おそらく、「デルタ西部のアレキサンドリアが水路を使う主要な交易都市になり、ナイル川の西側の支流が重要視される一方、東側の支流は重要度が下がったから」、もしくは、ペル・ラメセスが放棄された時のように「東側の支流の流れが変わったから」ではないかと思うが、はっきり書いていない。
いやまずそこ調べようよ。土壌調査か出土品の質、人口密度の変化あたり調べれば見当がつくよ。
ナイルの支流がちょいちょい位置を変えていたことについては、既に先行研究が色々出ている。当然、川沿いの街の繁栄と衰退は川の流れにかかっている。
そもそも、このイメトの街のある場所より北側は、初期王朝時代の頃はまだ低湿地で、人が住むのはギリギリの場所だったと思われる。ナイルの支流が土を運んでちょっとずつ海岸線が後退し、新王国時代の頃には水に沈むことが無くなっていたのだと思う。街が本格的に作られ始めたのが新王国時代の頃というのは、それまではガッチリ神殿とか作れる土地が無かったのではないかと思う。
ナイルデルタの場合、街が築かれる最初の条件は、「水没しない、安定して居住できる高台がある」ことなのだから。
古代エジプト、ナイル下流はある時点まで人口が少なかった? 洪水デバフの威力とは
https://55096962.seesaa.net/article/503068544.html
というわけで、調査もうちょっと進めてもらわないとイメトの街の歴史について語るには微妙だなとは思ったが、こんな街のド真ん中な遺跡でもまだ遺物とか出てくるんだなっていうのはちょっとおもしろかった。
エジプトさん、昔からある高台掘ったらだいたいなんか出てくる。そんな国。