一神教の神はなぜ姿がないのか→元々そういう文化圏だったのでは?
イスラエル、という名称が歴史上最初に登場するのは、エジプトの「イスラエル石碑」であり、そこにはエジプトが打倒した部族名として「イスラエル」が登場する。これが現在のイスラエル人と同一かどうかはさておき、エジプトは、イスラエル人とイスラエル人の宗教の最も古い形の証言を残す地域である。
ヤハウェに該当する名称もエジプトの記録が古く、ラメセス2世の時代に作られた土地名称一覧に「ヤハウェのシャス遊牧民の土地」という外国名が登場する。この記録から、「元々ヤハウェというのは土地の名前で、シャスという遊牧民が住んでいた土地の神だったのではないか」という説がある。(たとえばアッシュル神はアッシュルという街の神なので、この命名法則はナシではない)
シャス人が住んでいたのはヨルダン川東岸~シリアあたり、もしくは北アラビアまでを含む、砂漠地帯ではないかと考えられている。
下の地図の黄色い◯をつけたあたりだ。ただし考古学的な証拠はなく、旧約聖書はあくまで後世に編纂されたもので歴史記録として使うのは心もとない。

このあたりの地域は現在も遊牧民が住み、逆に定住して農耕をするのにはあまり向かない。ヨルダン南部は乾燥地帯で、有名なナバテア人の遺跡、ペトラ遺跡もここにある。シャス人は、紀元前1,000年くらいにこの辺りにいた民族名なのかもしれない。
彼らの民族神であったヤハウェがどのようにして国家神となり、全知全能の神扱いされるようになったのかはここでは辿らない。
本題は、「なぜ神の姿がないのか/姿を描いてはならないのか」である。
「元々遊牧民は神の姿を描く文化がない」「形を作らない」というのが、一つの答えである。
これは、考え方としてわりとアリだなと思っている。(ソースは以下の本)

古代イスラエル宗教史: 先史時代からユダヤ教・キリスト教の成立まで - ミヒャエル・ティリー, ヴォルフガング・ツヴィッケル, 山我哲雄
エジプトにしろ、メソポタミアにしろ、農耕・定住の民は神殿を造り、神像を刻む文化を持つ。遊牧民はそれをしない。
のちの時代のナバテア人も、中心となる集会場のような場所で岩を刻んで神殿に似たものは作っているが、自分たちの神の御神体は「石の台座」とか「シンボルマークを刻んだ石」とかになっていて、人間の形はあまり作らない。(全く作らないわけではないし、ローマの影響が強まった時代には存在するが、神殿に必ず神像を置くというような文化ではない)
だとすれば、ヤハウェに「姿がない」のは、「元々無かったし、新たに作るつもりもなかったから」で、姿を作ろうとすると先行文明であるエジプトやメソポタミアの影響を受けて、そちらの神と同一視されてしまうのを恐れたからなのでは? という推測も成り立つ。
実際、この地域の他の神々で、像を刻んだ神はすべてエジプトとメソポタミアの雰囲気を合体させた感じになってしまっているので…。
姿がほかの神と全く同じになってしまって、「A神とB神は名前の違いだけで同一」のような混淆もしょっちゅう起きているので…。
そもそもの始まりとして、ヤハウェは唯一絶対の神ではなく、多数いる民族神の一柱に過ぎず、アシェラという配偶女神がいたことも知られている。アシェラのほうも像はなく、木の柱を建てて信仰されていたとされる。木の柱に対応させるため、ヤハウェの御神体は石柱だった、という説もある。
このあり方は、実は、後世に登場する唯一神、アッラーとも同じである。アッラーも最初は多数いる民族神の一柱であり、アッラートという配偶神がいた。そして神像はない。アッラーを信仰していたのは、南アラビアの部族である。
これら、のちに唯一神となる民族神たちは、「姿がない」がゆえに独自性を保つことが出来、他の地域のイメージ化された神々との融合を免れたのではないだろうか。像を刻むことが禁止されたのは、偶像崇拝が宗教的にダメというよりも、それをした時点で文明的に先行している周辺地域の神/信仰に乗っ取られる危険性があるから。
そして、神名にこだわるのも、姿やシンボルが無い以上、名前だけが唯一のアイデンティティだったからかもしれない。
もしそうだとすると、「偶像崇拝禁止」という宗教的禁忌の見え方も、少し変わってくるのではないだろうか。
*****
オマケ
一神教の神は全部同じ、という建前と信者の現実。「ヤハウェ≒アッラー」
https://55096962.seesaa.net/article/500425347.html
ムハンマド以前のアラビア半島宗教事情「イスラーム成立前の諸宗教」
https://55096962.seesaa.net/article/500357480.html
ヤハウェに該当する名称もエジプトの記録が古く、ラメセス2世の時代に作られた土地名称一覧に「ヤハウェのシャス遊牧民の土地」という外国名が登場する。この記録から、「元々ヤハウェというのは土地の名前で、シャスという遊牧民が住んでいた土地の神だったのではないか」という説がある。(たとえばアッシュル神はアッシュルという街の神なので、この命名法則はナシではない)
シャス人が住んでいたのはヨルダン川東岸~シリアあたり、もしくは北アラビアまでを含む、砂漠地帯ではないかと考えられている。
下の地図の黄色い◯をつけたあたりだ。ただし考古学的な証拠はなく、旧約聖書はあくまで後世に編纂されたもので歴史記録として使うのは心もとない。
このあたりの地域は現在も遊牧民が住み、逆に定住して農耕をするのにはあまり向かない。ヨルダン南部は乾燥地帯で、有名なナバテア人の遺跡、ペトラ遺跡もここにある。シャス人は、紀元前1,000年くらいにこの辺りにいた民族名なのかもしれない。
彼らの民族神であったヤハウェがどのようにして国家神となり、全知全能の神扱いされるようになったのかはここでは辿らない。
本題は、「なぜ神の姿がないのか/姿を描いてはならないのか」である。
「元々遊牧民は神の姿を描く文化がない」「形を作らない」というのが、一つの答えである。
これは、考え方としてわりとアリだなと思っている。(ソースは以下の本)

古代イスラエル宗教史: 先史時代からユダヤ教・キリスト教の成立まで - ミヒャエル・ティリー, ヴォルフガング・ツヴィッケル, 山我哲雄
エジプトにしろ、メソポタミアにしろ、農耕・定住の民は神殿を造り、神像を刻む文化を持つ。遊牧民はそれをしない。
のちの時代のナバテア人も、中心となる集会場のような場所で岩を刻んで神殿に似たものは作っているが、自分たちの神の御神体は「石の台座」とか「シンボルマークを刻んだ石」とかになっていて、人間の形はあまり作らない。(全く作らないわけではないし、ローマの影響が強まった時代には存在するが、神殿に必ず神像を置くというような文化ではない)
だとすれば、ヤハウェに「姿がない」のは、「元々無かったし、新たに作るつもりもなかったから」で、姿を作ろうとすると先行文明であるエジプトやメソポタミアの影響を受けて、そちらの神と同一視されてしまうのを恐れたからなのでは? という推測も成り立つ。
実際、この地域の他の神々で、像を刻んだ神はすべてエジプトとメソポタミアの雰囲気を合体させた感じになってしまっているので…。
姿がほかの神と全く同じになってしまって、「A神とB神は名前の違いだけで同一」のような混淆もしょっちゅう起きているので…。
そもそもの始まりとして、ヤハウェは唯一絶対の神ではなく、多数いる民族神の一柱に過ぎず、アシェラという配偶女神がいたことも知られている。アシェラのほうも像はなく、木の柱を建てて信仰されていたとされる。木の柱に対応させるため、ヤハウェの御神体は石柱だった、という説もある。
このあり方は、実は、後世に登場する唯一神、アッラーとも同じである。アッラーも最初は多数いる民族神の一柱であり、アッラートという配偶神がいた。そして神像はない。アッラーを信仰していたのは、南アラビアの部族である。
これら、のちに唯一神となる民族神たちは、「姿がない」がゆえに独自性を保つことが出来、他の地域のイメージ化された神々との融合を免れたのではないだろうか。像を刻むことが禁止されたのは、偶像崇拝が宗教的にダメというよりも、それをした時点で文明的に先行している周辺地域の神/信仰に乗っ取られる危険性があるから。
そして、神名にこだわるのも、姿やシンボルが無い以上、名前だけが唯一のアイデンティティだったからかもしれない。
もしそうだとすると、「偶像崇拝禁止」という宗教的禁忌の見え方も、少し変わってくるのではないだろうか。
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オマケ
一神教の神は全部同じ、という建前と信者の現実。「ヤハウェ≒アッラー」
https://55096962.seesaa.net/article/500425347.html
ムハンマド以前のアラビア半島宗教事情「イスラーム成立前の諸宗教」
https://55096962.seesaa.net/article/500357480.html