エジプト・ナイル東部からヒエログリフのみの「カノポス法令(カノポス勅令)」が見つかる→何のためのものなのか
古代エジプトの碑文で、ギリシャ語とエジプト語併記のものといえば、なんといっても「ロゼッタ・ストーン」が有名だろう。
ヒエログリフ解読に大いに貢献した品であり、イギリスとフランスで取り合いをし、最終的にイギリスに引き渡されて大英博物館入りしたものの、今もエジプトさんが強く変換を求めている品でもある。
だが、実は二か国語併記の碑文は他にもたくさんある。
その一つが「カノポス法令(カノポス勅令)」である。
※リストは以下を参照
ロゼッタ・ストーン以外の「二か国語石碑」の一覧を作っておいた
https://55096962.seesaa.net/article/498588492.html
カノポス法令(The Decree of Canopus)は、紀元前238年プトレマイオス3世の時代に発令された勅令を刻んだもので、主要な各地の神殿にコピーが送られて建てられていた。ギリシャ語とエジプト語が併記された理由は、ロゼッタ・ストーンと同じく「住民にギリシャ系移民とエジプト系がいたから」、「第一公用語はギリシャ語だがエジプト語で祭礼を行う地元の神殿に建てているから」、「地元民への配慮」などだろう。
ただ、今回見つかったものは例外的にヒエログリフのみ。なんで二か国語にしぃひんかったん…? と思っていたのだが、発掘された場所がイメトだったので意味が分かった。
これ純粋にエジプト人への命令書ですね…。

※エジプト考古庁のプレスリリース的なもの(facebook)。何か発見するとだいたいここに出る
イメトについては以下。さいきん発掘されている地域で、プトレマイオス朝の時代には衰退していたとされる都市。
衰退の原因が近くに別の都市が出来てそっちに人が集まって栄えていたせいなのだが、古い神殿などは元の場所に残ってて、主に地元民が参拝していたんじゃないかな。ギリシャ系の住民があまりいないのでヒエログリフだけだったのだと思う。
古代エジプト、下エジプト第19ノモスの都「イメト」の発掘調査について
https://55096962.seesaa.net/article/516639686.html
また、この石碑の中身は、以下のようなものになっており、プトレマイオス朝伝統の「王家は神だから! 神として崇めるように!」という内容になっている。古代エジプトの現人神信仰を、外来系の王家に導入して権威を保とうとしたのだ。
まあ、ゆうても、神殿に多額の寄進を行って碑文つくったり神殿修復したりして神官たちの力借りての権威だったわけだけども。
「慈悲深き神々」として崇敬されるプトレマイオス3世とベレニケ王妃は、神殿への寄進、国内の平和維持、ナイル川の氾濫が少ない年の減税などを実施した。神殿で王と王妃を讃えよ。神として祀るため新たに神官を配置し祝祭を設定する。また4年に1日を両王妃への崇拝に充てる閏年の制度を導入する。王と王妃の娘であるベレニケも神とする。」
ちなみに、このプトレマイオス3世の「うるう年導入改革」は失敗に終わる。
365日で固定され、4年毎に1日ずれていく伝統の暦の完全な修正はローマ属領になってからで。西暦284年のコプト暦の導入以降。(そのへんも以前まとめた)
この石碑が建てられたプトレマイオス3世の時代は、プトレマイオス朝の最盛期とされ、国土も最大となっている。
「ワイと嫁は神夫婦になったで、崇めてや! ついでに娘も神や。聖家族やるやで!」みたいな調子こいた高飛車な勅令を各地の神殿に配りまくっていたのは、この時代ならではの現象だったと解釈できるかもしれない。
ヒエログリフ解読に大いに貢献した品であり、イギリスとフランスで取り合いをし、最終的にイギリスに引き渡されて大英博物館入りしたものの、今もエジプトさんが強く変換を求めている品でもある。
だが、実は二か国語併記の碑文は他にもたくさんある。
その一つが「カノポス法令(カノポス勅令)」である。
※リストは以下を参照
ロゼッタ・ストーン以外の「二か国語石碑」の一覧を作っておいた
https://55096962.seesaa.net/article/498588492.html
カノポス法令(The Decree of Canopus)は、紀元前238年プトレマイオス3世の時代に発令された勅令を刻んだもので、主要な各地の神殿にコピーが送られて建てられていた。ギリシャ語とエジプト語が併記された理由は、ロゼッタ・ストーンと同じく「住民にギリシャ系移民とエジプト系がいたから」、「第一公用語はギリシャ語だがエジプト語で祭礼を行う地元の神殿に建てているから」、「地元民への配慮」などだろう。
ただ、今回見つかったものは例外的にヒエログリフのみ。なんで二か国語にしぃひんかったん…? と思っていたのだが、発掘された場所がイメトだったので意味が分かった。
これ純粋にエジプト人への命令書ですね…。
※エジプト考古庁のプレスリリース的なもの(facebook)。何か発見するとだいたいここに出る
イメトについては以下。さいきん発掘されている地域で、プトレマイオス朝の時代には衰退していたとされる都市。
衰退の原因が近くに別の都市が出来てそっちに人が集まって栄えていたせいなのだが、古い神殿などは元の場所に残ってて、主に地元民が参拝していたんじゃないかな。ギリシャ系の住民があまりいないのでヒエログリフだけだったのだと思う。
古代エジプト、下エジプト第19ノモスの都「イメト」の発掘調査について
https://55096962.seesaa.net/article/516639686.html
また、この石碑の中身は、以下のようなものになっており、プトレマイオス朝伝統の「王家は神だから! 神として崇めるように!」という内容になっている。古代エジプトの現人神信仰を、外来系の王家に導入して権威を保とうとしたのだ。
まあ、ゆうても、神殿に多額の寄進を行って碑文つくったり神殿修復したりして神官たちの力借りての権威だったわけだけども。
「慈悲深き神々」として崇敬されるプトレマイオス3世とベレニケ王妃は、神殿への寄進、国内の平和維持、ナイル川の氾濫が少ない年の減税などを実施した。神殿で王と王妃を讃えよ。神として祀るため新たに神官を配置し祝祭を設定する。また4年に1日を両王妃への崇拝に充てる閏年の制度を導入する。王と王妃の娘であるベレニケも神とする。」
ちなみに、このプトレマイオス3世の「うるう年導入改革」は失敗に終わる。
365日で固定され、4年毎に1日ずれていく伝統の暦の完全な修正はローマ属領になってからで。西暦284年のコプト暦の導入以降。(そのへんも以前まとめた)
この石碑が建てられたプトレマイオス3世の時代は、プトレマイオス朝の最盛期とされ、国土も最大となっている。
「ワイと嫁は神夫婦になったで、崇めてや! ついでに娘も神や。聖家族やるやで!」みたいな調子こいた高飛車な勅令を各地の神殿に配りまくっていたのは、この時代ならではの現象だったと解釈できるかもしれない。