エジプト最後の女王クレオパトラの娘、クレオパトラ・セレーネと「マウレタニア王国」について
エジプト最後の女王クレオパトラ7世には、4人の子どもがいた。
カエサルとの息子カエサリオン。そしてアントニウスとの間に出来た双子、クレオパトラ・セレーネとアレクサンドロス・ヘリオス、その弟でプトレマイオス・フィラデルフォスだ。
これらの子どもたちのうち、唯一成人して子どもを儲けたのがクレオパトラ・セレーネ。
彼女は母の自害とエジプト陥落後、ローマに連行されたのち、アントニウスの妻だったオクタヴィアに預けられ、そこで養育された。そして、のちに同じくローマで養育されていた北アフリカのヌミディア王国の王家の血を引く王子、ガイウス・ユリウス・ユバ(父がユバ1世なのでユバ2世とも呼ばれる)と結婚して、ヌミディア王国だった場所に設定された属国、マウレタニアの王妃となる。
エジプトは王国としては消滅し属州となるが、ヌミディア/マウレタニアはいったん王国に戻されたことになる。ただしこの王国もそれほど長続きはせず、ユバ2世とクレオパトラ、そして彼らの息子のプトレマイオスが属国統治したのち、プトレマイオスが暗殺されたことによって65年ほど後にローマ属州になり独立を失う。
以後、ヴァンダル人がやってきてローマから切り取り、さらにアラブ人がやってきてイスラム帝国の一部になり…と、歴史は移り変わっていくことになる。
さて、ここで厄介なのが、ユバ2世はもともと「ヌミディア王国の王家の血を引く」人物なのに、何でかいきなり「マウレタニアの王」になっていることだ。
昔からこれよく分かんねえなー王国の名前変えたんかなーと思っていたのだが、改めて調べてみたら意味が分かった。
そもそも「ヌミディア」と「マウレタニア」は隣り合う別々の小国家で、ヌミディアのすぐ西がマウレタニア。
ローマが両方征服して合体させたあとに残した名前が「マウレタニア」。
位置関係はだいたいこんな感じだが、ここに出てくる「ヌミディア」は最大版図の時で、カルタゴを南方から包囲してローマとともに挟み撃ちした時代のもの。

マウレタニアのだいたいの位置がこれ。現在のモロッコあたりまで。

両者の国境はその時々の勢力によって変更されるため、厳密にどこまではヌミディアでどこからがマウレタニアというのはいいづらい。
ちなみに現代国家「モーリタニア」の由来がマウレタニアらしいのだが、図を見てわかるとおり実際の古代のマウレタニアはモーリタニアのあたりまでは広がっていない。民族的にもあんまり関係ないらしいので、古代王国の栄光を借りただけの遠い親戚、くらいの関係か。(東アフリカの国家「プントランド」と古代の「プント王国」の関係もそんな感じである)

ローマ属国としてのマウレタニアの都は古代のカエサリア、現代のシェルシェルという町のあたりらしい。
で、クレオパトラ・セレーネの墓とされる遺跡はそこにある。通称「マウレタニア王家の墓」、ただし中に遺骨などは無く、近代まで荒れ果ててバラバラになっていたものを組み立て直したのが今の姿のようだ。

様式からして建てられた年代がユバ2世の時代の前後という確率は高く、1世紀のローマ地理学者ポンポニウス・メラが「王家の共同霊廟として築かれた」と書いている建造物に該当すると考えられているため、ユバ2世とクレオパトラ・セレーネの墓だったと解釈するのは妥当と思われる。
ただし埋葬の直接的な証拠が何も見つかっていないこと、二人だけの墓だったのか、息子を含む王家の関係者全員の共同墓地にするつもりだったのかなどは不明。
後継者である息子プトレマイオスが子どもを残さずに亡くなったことで王家も断絶してしまっているので、夫婦のあとにここに埋葬された子孫もいなかっただろう。
この遠いアルジェリアの遺跡は、古代エジプト最後の王朝の血統が途絶えた終焉の地とも言えるのである。
カエサルとの息子カエサリオン。そしてアントニウスとの間に出来た双子、クレオパトラ・セレーネとアレクサンドロス・ヘリオス、その弟でプトレマイオス・フィラデルフォスだ。
これらの子どもたちのうち、唯一成人して子どもを儲けたのがクレオパトラ・セレーネ。
彼女は母の自害とエジプト陥落後、ローマに連行されたのち、アントニウスの妻だったオクタヴィアに預けられ、そこで養育された。そして、のちに同じくローマで養育されていた北アフリカのヌミディア王国の王家の血を引く王子、ガイウス・ユリウス・ユバ(父がユバ1世なのでユバ2世とも呼ばれる)と結婚して、ヌミディア王国だった場所に設定された属国、マウレタニアの王妃となる。
エジプトは王国としては消滅し属州となるが、ヌミディア/マウレタニアはいったん王国に戻されたことになる。ただしこの王国もそれほど長続きはせず、ユバ2世とクレオパトラ、そして彼らの息子のプトレマイオスが属国統治したのち、プトレマイオスが暗殺されたことによって65年ほど後にローマ属州になり独立を失う。
以後、ヴァンダル人がやってきてローマから切り取り、さらにアラブ人がやってきてイスラム帝国の一部になり…と、歴史は移り変わっていくことになる。
さて、ここで厄介なのが、ユバ2世はもともと「ヌミディア王国の王家の血を引く」人物なのに、何でかいきなり「マウレタニアの王」になっていることだ。
昔からこれよく分かんねえなー王国の名前変えたんかなーと思っていたのだが、改めて調べてみたら意味が分かった。
そもそも「ヌミディア」と「マウレタニア」は隣り合う別々の小国家で、ヌミディアのすぐ西がマウレタニア。
ローマが両方征服して合体させたあとに残した名前が「マウレタニア」。
位置関係はだいたいこんな感じだが、ここに出てくる「ヌミディア」は最大版図の時で、カルタゴを南方から包囲してローマとともに挟み撃ちした時代のもの。
マウレタニアのだいたいの位置がこれ。現在のモロッコあたりまで。
両者の国境はその時々の勢力によって変更されるため、厳密にどこまではヌミディアでどこからがマウレタニアというのはいいづらい。
ちなみに現代国家「モーリタニア」の由来がマウレタニアらしいのだが、図を見てわかるとおり実際の古代のマウレタニアはモーリタニアのあたりまでは広がっていない。民族的にもあんまり関係ないらしいので、古代王国の栄光を借りただけの遠い親戚、くらいの関係か。(東アフリカの国家「プントランド」と古代の「プント王国」の関係もそんな感じである)
ローマ属国としてのマウレタニアの都は古代のカエサリア、現代のシェルシェルという町のあたりらしい。
で、クレオパトラ・セレーネの墓とされる遺跡はそこにある。通称「マウレタニア王家の墓」、ただし中に遺骨などは無く、近代まで荒れ果ててバラバラになっていたものを組み立て直したのが今の姿のようだ。
様式からして建てられた年代がユバ2世の時代の前後という確率は高く、1世紀のローマ地理学者ポンポニウス・メラが「王家の共同霊廟として築かれた」と書いている建造物に該当すると考えられているため、ユバ2世とクレオパトラ・セレーネの墓だったと解釈するのは妥当と思われる。
ただし埋葬の直接的な証拠が何も見つかっていないこと、二人だけの墓だったのか、息子を含む王家の関係者全員の共同墓地にするつもりだったのかなどは不明。
後継者である息子プトレマイオスが子どもを残さずに亡くなったことで王家も断絶してしまっているので、夫婦のあとにここに埋葬された子孫もいなかっただろう。
この遠いアルジェリアの遺跡は、古代エジプト最後の王朝の血統が途絶えた終焉の地とも言えるのである。