最初から最後まで噛み合わない話を聞いてる感じ「サピエンス全史」
10年近く前に話題になり、ベストセラーか何かになった本である。
当時は、あまりにも面白くなくて後半ブン投げてしまったのだが、改めて感想的なものを書いておこうと思う。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福 - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之
まず、この本は人類学とか歴史学とかに分類されるべき本ではない。
良く言えば意識高い系、悪く言えば裕福な都会人の思い描く現実世界と未来についての自己啓発本、あたりになる。
サピエンス全史とタイトルをつけておきながら全く「全史」ではない。いちおう現生人類=ホモ・サピエンスの誕生から現代、未来に至るまでの言及はあるのだが、過去については妄想、現実については歯切れが悪く、未来についてほぼ根拠薄のファンタジーとなっており、「人間社会はこれからどうなっていくのか、人間にとっての幸福とは何で、どうすれば幸福に生きられるのか」という内容を大上段から振りかざしている割に内容が薄くて読むのは苦痛。
サブタイトル「文明の構造と人類の幸福」のほうが本の内容を正しく表現している。というか、その「文明の構造」部分がまず既存の知識を持つ側としては話全然噛み合ってねぇなと感じるところなので、その後に続けられる「人類の幸福とは」の部分も余計に机上の空論に感じられてしまうわけなのだが…。
本の章立ては以下になっている。
第一部 認知革命
第二部 農業革命
第三部 人類の統一
まず第一部の「認知革命」とは、現生人類には5万年くらい前に認知の革命が起き、実在しないものや現実にはないものについて想像したり語ったりすることが出来るようになった、という仮説である。
この本では、認知革命によって現生人類はネアンデルタールなどとは差がつき、神や神話、国家や法律、ジェンダーなどといった形のないもの、幻想に過ぎないものを創造することが出来るようになり、実際には存在しないものに現実性を持たせることが出来るようになった、と、さも確定事項のように述べている。
しかし、「認知革命」を事実として認めている学者はほぼいない。というか私は一人くらいしか見かけたことがない。
理由は簡単で、証明出来ない上に断言できるだけの証拠が何もないからである。
我々の祖先であるホモ族に、脳が巨大化するという遺伝的な変化が起きたことは間違いない。巨大な脳は猿とヒトを区別する最大の特徴である。
しかし、その脳の働き、使い方について、ネアンデルタールとホモ・サピエンスの間に差異があったことを示唆する明確な証拠は無い。ネアンデルタールのゲノム解析もだいぶ進んだが、脳の使い方や働きを決定的に変容させる遺伝的な要素要素は見つかっていないし、単に「岩絵を描き始めた、人形を作り始めた、これは認知革命の結果に違いない!」とか仮定に仮定を積み重ねているだけの話である。(というか別に革命とかじゃなくてもそのくらいの変化は起きると思うのだが…。グラヴェット文化を参照)
つまりは、ホモ・エレクトゥスにも神はいたかもしれないし、ネアンデルタールにも将来の夢はあったかもしれないということだ。
壁画を描くとか人形を作成するなどを差異と見做そうにも、それを作ったのが「誰」なのかすら分からず、「何を意図していたのか」も不明なのだから。
ホモ・サピエンスはネアンデルタールより複雑な社会を持っていた、という部分でさえ、学者によって意見はまちまちだし、分かっていることが少ない中で断言することは出来ない。にも関わらず、不確かなものを積み重ね、現生人類だけが社会的なルールや集団意識という幻想を生み出せたためにネアンデルタールより大きな集団を作れた、などと断言するのは、とうてい科学的な手法とは呼べない。
それはオカルトでよくある論旨の組み立て方である。
「認知革命」があったかどうかは断言することの出来ない不確かなものなのだから、この本は実は第一部からして既に破綻しているのである。
そしてもっと言うならば、現在の人間が持つ社会的要素、「国家」「人権」「神/宗教」「ジェンダーロール」などを「実際には存在しない幻想」と読んでいること自体が、かなり強引なストーリーの作り方である。
自然科学の世界では、この世界の全ては人間が定義づけたものであることを最初に習う。
何故、水は0度で氷になり、100度で沸騰するのか。それは「温度」という単位が、水を基準に作られているからである。
温度という概念は、人間の見ている世界にしか存在しない。人間が人間のために、この世界を定義つけるために作ったものだ。
何故、空は「青い」のか。それは、特定の光の波長を「青」という色に設定し、その名前で呼ぶからである。実際には「青」という色は存在しない。もちろん赤や白や黒もである。世界の存在するのは光の波長だけであり、その中でも人間に見える可視光線、約380nm~780nmの範囲にある波長を人為的に区切って色名というラベルを貼っているだけに過ぎない。
もちろんnmという単位も人間が作ったものであり、「空」という概念も人間が名付けて作ったものだ。
自然科学とは、この世界に存在するあらゆるもの、あらゆる現象を定義づけ、名前をつけ、分類してはじめて成り立つ。「実際には存在しない幻想」というのなら、国家だ人権だの前に、まずこの世界について述べるべきだった。
そして、かつては「神話」がこの「定義して分類する」の役割を担っていたことから話を始めるべきだった。
科学は絶対の真実ではない。現代世界において、この世界を理解するための「共通のお約束ごと」なのである。
そして、「国家」とか「倫理」とか「法律」とか「社会規範」というものも、幻想というよりは、この世界に秩序を生み出すための、別レイヤーでの「共通のお約束ごと」である。集団生活を始めた最初に規定された共通概念と呼ぶべきものだろう。
著者はまずそこを理解していないか、自分の言いたいことのために無視したのではないだろうか。それが後半に行くにつれて妄想めいた内容になっていく一因だと思う…。
続く第二部は「農業革命」、人間は農業を始めたことにより時間を拘束されるようになり、あくせく働かなくてはならなくなった、と述べている。これが人類の不幸の始まり、現代人だって毎日働いているでしょう? それって本当に幸せなのかなあ? という話に繋げていくための前フリである。
だが実際には、農業革命はいきなり人類の生活を一変させたわけではなかった。
まず、全ての作物は原産地では「そのへんの草」である。もともと自生していたものだから半放置でも育つ。小麦を栽培し始めたのは、天水、つまり雨で勝手に小麦の育つ地域であり、狩猟採集と組み合わせて補助食料としている。ジャガイモやトウモロコシについてもそうで、アンデスの住民は現代でも、春に畑にトウモロコシの種を撒いたら夏は山で放牧をやって、実りの季節に山を降りてくるという組み合わせの暮らしをしている。
これらの作物を育てるために畑にはりついてあくせく働かなければならないのは、本来の生息地ではない地域で栽培しようとした場合だ。たとえば小麦なら、雨の一切降らないエジプトや、降るには降るが少なすぎるメソポタミアだろう。
そもそもこれらの地域では、自然環境が厳しすぎて食料が乏しいため、灌漑農法による主食の栽培という農耕技術がなければ、大規模な人口は賄えなかった可能性が高い。そして、これらの地域では、人手を要する灌漑さえ出来れば食料の確保が約束されたために、早くから人々が結束し、複雑な社会構造を作り上げる方向に変化していったのだろう。
つまり、古代エジプト文明やメソポタミア文明は、農耕に頼るしか生きていけない地域に人が集中することがトリガーになった可能性が高い。
逆に言えば、農耕にそこまで頼らなくても生きていける地域では、生存のために人が結束する力が弱く、高度な社会ルールや穀物計算、農業のための暦などを整備する緊急性も低かったかもしれない。
実際、農耕を始めた時期がエジプトやメソポタミアよりずっと早い麦の原産地近くでは、長らく狩猟採集を組み合わせた暮らしをしていて、高度な古代文明の起源地にはなっていない。つまりは地域差や気候条件などの差が大きい。全部ごっちゃにして語ろうとしてはいけない。
しかも、農耕に頼っていたエジプトやメソポタミアですら、この本に書かれているほど麦作に張り付きっぱなしというわけではなかった。
というか現代人でもそうだが、農家が畑や田んぼに張り付きっぱなしということは無いだろう。獣が畑にやって来るのを追い払うのはもちろんやるし、スズメのようなトリや虫の被害にしても対策は打つが、残念ながら、農業は一部食われたりダメになったりするのは最初から想定してやるものである。
現代のホワイトカラーが一日中パソコンの前に座っているように、農家が一日中畑の側にいると考えているのなら、それこそ都会人の思い込みというやつである。
まあ、「狩猟採集民には農民ほど暦を気にする必要がない」とか書いてるあたり、山菜の収穫時期がシビアなのも、狩猟にすら適期があるのも知らなさそうではあるけれど…。
なお余談だが、人骨から生前食べていたものの比率を調べる研究手法では、アンデスの狩猟採集民は、農耕始めるまでほとんどの栄養を採集した植物から得ていたと分かったらしい。内容は以前、以下にまとめた。
古代アンデス民はジャガイモを食っていた? 狩猟採集民ではなく「採集狩猟民」だったかもしれない
https://55096962.seesaa.net/article/502170975.html
運に左右される狩猟はアンデス古代人の食料獲得にはあまり寄与せず、農耕開始前から植物頼りだった。だとすれば、少なくともこの地域では、山を歩き回ってイモ採集するのをイモ畑を作って育てる農耕に置き換えただけで、生活スタイル自体はほとんど変わっていない可能性がある。
とうわけで、繰り返すが、農耕の登場によって人類の生活が革命的に変わったとか、狩猟民に比べて自由時間が減ったとか語るのはだいぶ無理がある。ただし、少なくとも一部の食物の乏しい地域では、ヒトの数を増やし、複雑な社会を作り上げるキッカケになった可能性はある。
というか農耕革命の一番の功績は、それまでヒトが暮らせなかった沙漠や高地など、狩猟採集対象の少ない地域まで生存可能域を拡大させ、人口を増やしたことじゃないのかな…。なんでそこに触れていないのかは不明。
この本全般に言えることだが、地域差の大きそうな話題でも一概にフラットにして一般論のように語ってしまっている。しかもある時はエジプトの話、ある時はアンデスの話、ある時は中国、というように自分の話したいことに都合のいい地域にぽんぽん飛んでいくため、「自説を強化するためにあらゆる人類史の中から都合のいい事例をチョイスしていきます」という雰囲気を強く感じる。
そもそも化学肥料の無い時代にはそこまで効率的に作物が育たないし、栽培植物の品種改良だって長い時間をかけて行われてきたものだ。農薬のない時代には病気で作物が全滅しないよう効率が悪くても病気に強い作物を敢えて育てたり、複数の品種を混ぜて栽培したりもしていたし、現代の効率重視の商業作物栽培を念頭に置いて語るのでは、当然、偏った見方しか出来ない。
そしてこれらの前提のもと、人類はこれまでいくつもの大きな変化を体験してきた、これから来る変化は何なのか、それは我々を幸せにしてくれるものなのか…? というのが、おそらく著者のいちばん書きたかったであろう第三部である。
が、前提の組み立て方からしてだいぶ無理がある土台なので、そこに城を建てて載せようとしたところで傾いたり歪んだりするのは当然と言える。
バイオサイエンスやAIなど色々取り上げて、いつか不老長寿が実現するかもしれないとか、脳の機能を拡張したり身体を改造したりできるかもしれないとか書いてあるけど、うーん( ) という感じで…前回はまあそこで挫折したんですけど…なんていうかこう、意識高いおじいちゃん役員の長い長い演説を仕事で聞かされてる時の顔になってしまう…w
無意識にやってるのか意識的に演じてるのかは不明だが、欧米社会の創り出したルールやグローバルスタンダードを上段に設定しているところ、世界がそれに従っていると信じているところ、さらには人間社会が無知蒙昧な狩猟採集社会から農耕牧畜へ、部族社会から高度な国家へと一方向かつ決め打ちの「進化」をしていることを無意識の前提として構成されているところから不適切だと思うのだ。
この世界はそんなに単純ではないし、社会の「進化」「発展」は必ずしも一方向ではない。歴史は一つの流れに従って進んでいるわけではないし、部族社会より国民国家のほうが優れているとも限らない。
人類の幸福とは、などという大上段からのテーマを語るには、あまりにも欧米中心の目線すぎるし、いかにも都会に住むエリートの考えそうな内容すぎる。現代においてすら「幸福」の定義は人や地域によって全く異なる。それを包括して語れるだけの前提は、この本には示されていない。
少なくとも私には、この本が書こうとしている人類の未来なるものに全く現実性を感じられず、机上の空論だなと思ってしまった。
これに啓発・啓蒙された人がいるのであれば、未来の前にまず「現在」を見て欲しいのだ。
最初から、ホモ・サピエンスが誕生した時などというはるかな過去を無理やり見通そうとする必要はない。現在という土台の上で未来を見ればいい。
「未来」は必ず「現在」から繋がる時間の上にある。あなたの考える「未来」は、「現在」とどう繋がっていますか? あなたにとっての幸福とは何なのか、いま望むこととは何か、考えてみたことは?
現在が自分では見えない、人に教えて貰わないとわからない、理解できていない、というのであれば、そもそも未来をどうこう語る以前なのだから。
当時は、あまりにも面白くなくて後半ブン投げてしまったのだが、改めて感想的なものを書いておこうと思う。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福 - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之
まず、この本は人類学とか歴史学とかに分類されるべき本ではない。
良く言えば意識高い系、悪く言えば裕福な都会人の思い描く現実世界と未来についての自己啓発本、あたりになる。
サピエンス全史とタイトルをつけておきながら全く「全史」ではない。いちおう現生人類=ホモ・サピエンスの誕生から現代、未来に至るまでの言及はあるのだが、過去については妄想、現実については歯切れが悪く、未来についてほぼ根拠薄のファンタジーとなっており、「人間社会はこれからどうなっていくのか、人間にとっての幸福とは何で、どうすれば幸福に生きられるのか」という内容を大上段から振りかざしている割に内容が薄くて読むのは苦痛。
サブタイトル「文明の構造と人類の幸福」のほうが本の内容を正しく表現している。というか、その「文明の構造」部分がまず既存の知識を持つ側としては話全然噛み合ってねぇなと感じるところなので、その後に続けられる「人類の幸福とは」の部分も余計に机上の空論に感じられてしまうわけなのだが…。
本の章立ては以下になっている。
第一部 認知革命
第二部 農業革命
第三部 人類の統一
まず第一部の「認知革命」とは、現生人類には5万年くらい前に認知の革命が起き、実在しないものや現実にはないものについて想像したり語ったりすることが出来るようになった、という仮説である。
この本では、認知革命によって現生人類はネアンデルタールなどとは差がつき、神や神話、国家や法律、ジェンダーなどといった形のないもの、幻想に過ぎないものを創造することが出来るようになり、実際には存在しないものに現実性を持たせることが出来るようになった、と、さも確定事項のように述べている。
しかし、「認知革命」を事実として認めている学者はほぼいない。というか私は一人くらいしか見かけたことがない。
理由は簡単で、証明出来ない上に断言できるだけの証拠が何もないからである。
我々の祖先であるホモ族に、脳が巨大化するという遺伝的な変化が起きたことは間違いない。巨大な脳は猿とヒトを区別する最大の特徴である。
しかし、その脳の働き、使い方について、ネアンデルタールとホモ・サピエンスの間に差異があったことを示唆する明確な証拠は無い。ネアンデルタールのゲノム解析もだいぶ進んだが、脳の使い方や働きを決定的に変容させる遺伝的な要素要素は見つかっていないし、単に「岩絵を描き始めた、人形を作り始めた、これは認知革命の結果に違いない!」とか仮定に仮定を積み重ねているだけの話である。(というか別に革命とかじゃなくてもそのくらいの変化は起きると思うのだが…。グラヴェット文化を参照)
つまりは、ホモ・エレクトゥスにも神はいたかもしれないし、ネアンデルタールにも将来の夢はあったかもしれないということだ。
壁画を描くとか人形を作成するなどを差異と見做そうにも、それを作ったのが「誰」なのかすら分からず、「何を意図していたのか」も不明なのだから。
ホモ・サピエンスはネアンデルタールより複雑な社会を持っていた、という部分でさえ、学者によって意見はまちまちだし、分かっていることが少ない中で断言することは出来ない。にも関わらず、不確かなものを積み重ね、現生人類だけが社会的なルールや集団意識という幻想を生み出せたためにネアンデルタールより大きな集団を作れた、などと断言するのは、とうてい科学的な手法とは呼べない。
それはオカルトでよくある論旨の組み立て方である。
「認知革命」があったかどうかは断言することの出来ない不確かなものなのだから、この本は実は第一部からして既に破綻しているのである。
そしてもっと言うならば、現在の人間が持つ社会的要素、「国家」「人権」「神/宗教」「ジェンダーロール」などを「実際には存在しない幻想」と読んでいること自体が、かなり強引なストーリーの作り方である。
自然科学の世界では、この世界の全ては人間が定義づけたものであることを最初に習う。
何故、水は0度で氷になり、100度で沸騰するのか。それは「温度」という単位が、水を基準に作られているからである。
温度という概念は、人間の見ている世界にしか存在しない。人間が人間のために、この世界を定義つけるために作ったものだ。
何故、空は「青い」のか。それは、特定の光の波長を「青」という色に設定し、その名前で呼ぶからである。実際には「青」という色は存在しない。もちろん赤や白や黒もである。世界の存在するのは光の波長だけであり、その中でも人間に見える可視光線、約380nm~780nmの範囲にある波長を人為的に区切って色名というラベルを貼っているだけに過ぎない。
もちろんnmという単位も人間が作ったものであり、「空」という概念も人間が名付けて作ったものだ。
自然科学とは、この世界に存在するあらゆるもの、あらゆる現象を定義づけ、名前をつけ、分類してはじめて成り立つ。「実際には存在しない幻想」というのなら、国家だ人権だの前に、まずこの世界について述べるべきだった。
そして、かつては「神話」がこの「定義して分類する」の役割を担っていたことから話を始めるべきだった。
科学は絶対の真実ではない。現代世界において、この世界を理解するための「共通のお約束ごと」なのである。
そして、「国家」とか「倫理」とか「法律」とか「社会規範」というものも、幻想というよりは、この世界に秩序を生み出すための、別レイヤーでの「共通のお約束ごと」である。集団生活を始めた最初に規定された共通概念と呼ぶべきものだろう。
著者はまずそこを理解していないか、自分の言いたいことのために無視したのではないだろうか。それが後半に行くにつれて妄想めいた内容になっていく一因だと思う…。
続く第二部は「農業革命」、人間は農業を始めたことにより時間を拘束されるようになり、あくせく働かなくてはならなくなった、と述べている。これが人類の不幸の始まり、現代人だって毎日働いているでしょう? それって本当に幸せなのかなあ? という話に繋げていくための前フリである。
だが実際には、農業革命はいきなり人類の生活を一変させたわけではなかった。
まず、全ての作物は原産地では「そのへんの草」である。もともと自生していたものだから半放置でも育つ。小麦を栽培し始めたのは、天水、つまり雨で勝手に小麦の育つ地域であり、狩猟採集と組み合わせて補助食料としている。ジャガイモやトウモロコシについてもそうで、アンデスの住民は現代でも、春に畑にトウモロコシの種を撒いたら夏は山で放牧をやって、実りの季節に山を降りてくるという組み合わせの暮らしをしている。
これらの作物を育てるために畑にはりついてあくせく働かなければならないのは、本来の生息地ではない地域で栽培しようとした場合だ。たとえば小麦なら、雨の一切降らないエジプトや、降るには降るが少なすぎるメソポタミアだろう。
そもそもこれらの地域では、自然環境が厳しすぎて食料が乏しいため、灌漑農法による主食の栽培という農耕技術がなければ、大規模な人口は賄えなかった可能性が高い。そして、これらの地域では、人手を要する灌漑さえ出来れば食料の確保が約束されたために、早くから人々が結束し、複雑な社会構造を作り上げる方向に変化していったのだろう。
つまり、古代エジプト文明やメソポタミア文明は、農耕に頼るしか生きていけない地域に人が集中することがトリガーになった可能性が高い。
逆に言えば、農耕にそこまで頼らなくても生きていける地域では、生存のために人が結束する力が弱く、高度な社会ルールや穀物計算、農業のための暦などを整備する緊急性も低かったかもしれない。
実際、農耕を始めた時期がエジプトやメソポタミアよりずっと早い麦の原産地近くでは、長らく狩猟採集を組み合わせた暮らしをしていて、高度な古代文明の起源地にはなっていない。つまりは地域差や気候条件などの差が大きい。全部ごっちゃにして語ろうとしてはいけない。
しかも、農耕に頼っていたエジプトやメソポタミアですら、この本に書かれているほど麦作に張り付きっぱなしというわけではなかった。
というか現代人でもそうだが、農家が畑や田んぼに張り付きっぱなしということは無いだろう。獣が畑にやって来るのを追い払うのはもちろんやるし、スズメのようなトリや虫の被害にしても対策は打つが、残念ながら、農業は一部食われたりダメになったりするのは最初から想定してやるものである。
現代のホワイトカラーが一日中パソコンの前に座っているように、農家が一日中畑の側にいると考えているのなら、それこそ都会人の思い込みというやつである。
まあ、「狩猟採集民には農民ほど暦を気にする必要がない」とか書いてるあたり、山菜の収穫時期がシビアなのも、狩猟にすら適期があるのも知らなさそうではあるけれど…。
なお余談だが、人骨から生前食べていたものの比率を調べる研究手法では、アンデスの狩猟採集民は、農耕始めるまでほとんどの栄養を採集した植物から得ていたと分かったらしい。内容は以前、以下にまとめた。
古代アンデス民はジャガイモを食っていた? 狩猟採集民ではなく「採集狩猟民」だったかもしれない
https://55096962.seesaa.net/article/502170975.html
運に左右される狩猟はアンデス古代人の食料獲得にはあまり寄与せず、農耕開始前から植物頼りだった。だとすれば、少なくともこの地域では、山を歩き回ってイモ採集するのをイモ畑を作って育てる農耕に置き換えただけで、生活スタイル自体はほとんど変わっていない可能性がある。
とうわけで、繰り返すが、農耕の登場によって人類の生活が革命的に変わったとか、狩猟民に比べて自由時間が減ったとか語るのはだいぶ無理がある。ただし、少なくとも一部の食物の乏しい地域では、ヒトの数を増やし、複雑な社会を作り上げるキッカケになった可能性はある。
というか農耕革命の一番の功績は、それまでヒトが暮らせなかった沙漠や高地など、狩猟採集対象の少ない地域まで生存可能域を拡大させ、人口を増やしたことじゃないのかな…。なんでそこに触れていないのかは不明。
この本全般に言えることだが、地域差の大きそうな話題でも一概にフラットにして一般論のように語ってしまっている。しかもある時はエジプトの話、ある時はアンデスの話、ある時は中国、というように自分の話したいことに都合のいい地域にぽんぽん飛んでいくため、「自説を強化するためにあらゆる人類史の中から都合のいい事例をチョイスしていきます」という雰囲気を強く感じる。
そもそも化学肥料の無い時代にはそこまで効率的に作物が育たないし、栽培植物の品種改良だって長い時間をかけて行われてきたものだ。農薬のない時代には病気で作物が全滅しないよう効率が悪くても病気に強い作物を敢えて育てたり、複数の品種を混ぜて栽培したりもしていたし、現代の効率重視の商業作物栽培を念頭に置いて語るのでは、当然、偏った見方しか出来ない。
そしてこれらの前提のもと、人類はこれまでいくつもの大きな変化を体験してきた、これから来る変化は何なのか、それは我々を幸せにしてくれるものなのか…? というのが、おそらく著者のいちばん書きたかったであろう第三部である。
が、前提の組み立て方からしてだいぶ無理がある土台なので、そこに城を建てて載せようとしたところで傾いたり歪んだりするのは当然と言える。
バイオサイエンスやAIなど色々取り上げて、いつか不老長寿が実現するかもしれないとか、脳の機能を拡張したり身体を改造したりできるかもしれないとか書いてあるけど、うーん( ) という感じで…前回はまあそこで挫折したんですけど…なんていうかこう、意識高いおじいちゃん役員の長い長い演説を仕事で聞かされてる時の顔になってしまう…w
無意識にやってるのか意識的に演じてるのかは不明だが、欧米社会の創り出したルールやグローバルスタンダードを上段に設定しているところ、世界がそれに従っていると信じているところ、さらには人間社会が無知蒙昧な狩猟採集社会から農耕牧畜へ、部族社会から高度な国家へと一方向かつ決め打ちの「進化」をしていることを無意識の前提として構成されているところから不適切だと思うのだ。
この世界はそんなに単純ではないし、社会の「進化」「発展」は必ずしも一方向ではない。歴史は一つの流れに従って進んでいるわけではないし、部族社会より国民国家のほうが優れているとも限らない。
人類の幸福とは、などという大上段からのテーマを語るには、あまりにも欧米中心の目線すぎるし、いかにも都会に住むエリートの考えそうな内容すぎる。現代においてすら「幸福」の定義は人や地域によって全く異なる。それを包括して語れるだけの前提は、この本には示されていない。
少なくとも私には、この本が書こうとしている人類の未来なるものに全く現実性を感じられず、机上の空論だなと思ってしまった。
これに啓発・啓蒙された人がいるのであれば、未来の前にまず「現在」を見て欲しいのだ。
最初から、ホモ・サピエンスが誕生した時などというはるかな過去を無理やり見通そうとする必要はない。現在という土台の上で未来を見ればいい。
「未来」は必ず「現在」から繋がる時間の上にある。あなたの考える「未来」は、「現在」とどう繋がっていますか? あなたにとっての幸福とは何なのか、いま望むこととは何か、考えてみたことは?
現在が自分では見えない、人に教えて貰わないとわからない、理解できていない、というのであれば、そもそも未来をどうこう語る以前なのだから。