プトレマイオス朝の首都アレキサンドリアを作った最初のギリシャ人入植者の墓の発掘がだいたい完了したらしい
エジプト関連ニュースを流し見していた時にたまたま見つけたこれ。アレキサンドリア最古の遺跡であり、おそらく街を建設した最初のギリシャ人コミュニティの墓だろうとされている Shatby Necropolis の発掘プロジェクトが一通り終わったよ、という記事。
The Shatby Necropolis: Resting Place of Alexandria’s First Greek Settlers
https://greekreporter.com/2026/03/27/shatby-necropolis-resting-place-alexandria-first-greek-settlers/
場所はココ
農業大学とコプト教会の間あたり。発見されたのは1904年らしいのだが、ずっと放置されていて、ちゃんと発掘されたのがほんとに最近のことらしいので、観光地化されるのはこれからなのかなーという感じ。
写真見る限りは普通のカタコンベなんで、派手さとかはないけれど…。

まず前提として、アレキサンドリアの街はエジプト遠征にやってきたマケドニアの王アレクサンドロスが「ここに都作れ」と言ったことが建設のきっかけだったとされている。
それが紀元前4世紀の半ばである。アレキサンドリアの街の着工は、紀元前331年とされている。
都の建造開始以前のアレクサンドリア周辺は、ラコティスと呼ばれる小さな漁村があるだけの寂れた場所だったとされる。そこを開拓して、ギリシャ人入植地に変えたということだ。
アレクサンドロスが遠征に倒れたのち、その後、部下の一人だったプトレマイオスがエジプトに拠点を定め、後継者としてファラオを名乗ってこの都でプトレマイオス朝を創始するのが紀元前306年、もしくは305年。
この時点で都の建造開始から25年が経過している。
アレキサンドリアの建造のためには、まとまった数のギリシャ人技術者が入植していただろうし、都の建造を担っていた人たちの中には既に死亡している人たちもいただろう。
この墓地はまさにその時代、紀元前4世紀後半から3世紀にかけてのものなので、ここに埋葬されたのは最初の入植者たち、都の建造者たちだったと考えていいだろう。アレクサンドリアで現存する最古の遺跡、と呼ばれるゆえんだ。
この意味を知っていれば、地味に見える遺跡も面白いかもしれない。
実際、発掘で出てきたものの中にはプトレマイオス1世の治世初期に発行された硬貨など、アレキサンドリアが新生エジプトの首都として機能しはじめた頃の資料が色々ある模様。また、貴族や富裕層ではなく、役人や兵士、技師など、市井の、都の建造に関わっただろう様々な階級の人々が埋葬されているようなので、「新参者のギリシャ人コミュニティ」の寄り合いで管理されている共同墓地だったのではないだろうか。
プトレマイオス朝が正式に開始され、ギリシャ系住民がただのよそ者や移民ではなく「エジプト人」、「アレキサンドリア市民」へと組み込まれていく過程がどのようなものだったのかはとても面白いテーマだと思うので、是非だれか研究してほしいな…。
The Shatby Necropolis: Resting Place of Alexandria’s First Greek Settlers
https://greekreporter.com/2026/03/27/shatby-necropolis-resting-place-alexandria-first-greek-settlers/
場所はココ
農業大学とコプト教会の間あたり。発見されたのは1904年らしいのだが、ずっと放置されていて、ちゃんと発掘されたのがほんとに最近のことらしいので、観光地化されるのはこれからなのかなーという感じ。
写真見る限りは普通のカタコンベなんで、派手さとかはないけれど…。
まず前提として、アレキサンドリアの街はエジプト遠征にやってきたマケドニアの王アレクサンドロスが「ここに都作れ」と言ったことが建設のきっかけだったとされている。
それが紀元前4世紀の半ばである。アレキサンドリアの街の着工は、紀元前331年とされている。
都の建造開始以前のアレクサンドリア周辺は、ラコティスと呼ばれる小さな漁村があるだけの寂れた場所だったとされる。そこを開拓して、ギリシャ人入植地に変えたということだ。
アレクサンドロスが遠征に倒れたのち、その後、部下の一人だったプトレマイオスがエジプトに拠点を定め、後継者としてファラオを名乗ってこの都でプトレマイオス朝を創始するのが紀元前306年、もしくは305年。
この時点で都の建造開始から25年が経過している。
アレキサンドリアの建造のためには、まとまった数のギリシャ人技術者が入植していただろうし、都の建造を担っていた人たちの中には既に死亡している人たちもいただろう。
この墓地はまさにその時代、紀元前4世紀後半から3世紀にかけてのものなので、ここに埋葬されたのは最初の入植者たち、都の建造者たちだったと考えていいだろう。アレクサンドリアで現存する最古の遺跡、と呼ばれるゆえんだ。
この意味を知っていれば、地味に見える遺跡も面白いかもしれない。
実際、発掘で出てきたものの中にはプトレマイオス1世の治世初期に発行された硬貨など、アレキサンドリアが新生エジプトの首都として機能しはじめた頃の資料が色々ある模様。また、貴族や富裕層ではなく、役人や兵士、技師など、市井の、都の建造に関わっただろう様々な階級の人々が埋葬されているようなので、「新参者のギリシャ人コミュニティ」の寄り合いで管理されている共同墓地だったのではないだろうか。
プトレマイオス朝が正式に開始され、ギリシャ系住民がただのよそ者や移民ではなく「エジプト人」、「アレキサンドリア市民」へと組み込まれていく過程がどのようなものだったのかはとても面白いテーマだと思うので、是非だれか研究してほしいな…。