欧米圏のSNSで顔写真を出す人が多い理由、日本との違いは「プライバシー意識」ではなく「所属階級の表明」では? という話

Xでもその他のSNSでも、日本人はあまり自分の顔写真は出さず、それどころか名前やハンドルネームに由来するわけでもないものを使う傾向にある。インスタではやや顔写真を出す人が多い印象だが、後ろ姿や遠景などで、真正面からの顔をばばんと顔グラのように載っける人はさすがに少数だ。

それに対して欧米文化圏、アメリカやEU主要国では顔を出す人が多い。
この違いが何なのかについて、よく挙げられるのは「プライバシー意識の違い」とか「日本人はSNSの上では別人格を装う」といった理由だが、自分はそうではないと思っている。

顔写真を出すということは、その人が「白人」なのか「黒人」なのか「ヒスパニック」なのか「アジア人」なのか、「男性」なのか「女性」なのか、「若い」のか「中年」なのか「年寄り」なのか、といった、社会を構成する人のカテゴリーのどこに位置するかを宣言しているに等しい行為だと思うのだ。

そして、顔写真にこだわる欧米文化圏では、この所属カテゴリー(=社会階級)と思想・生活傾向が一致していることを強く期待され、自らの所属を宣言しない「何者か分からない」状態では一切信頼されないという傾向にあると思っている。

たとえば、NYに住む高収入な白人男性は当然リベラルであるべき、のようなステレオタイプだ。
これは日本でいうならば、たとえば、「キラキラ港区のタワマンに住んでいる一家の主婦なら、これこれこういう嗜好を持ち、こういう言動をするはずだ」というステレオタイプをより強化して、「~でなければならない」「~であるに違いない」くらいに思う期待感である。

そして、このステレオタイプに対する同調圧力は日本の比ではないくらい強く、そこから外れると袋叩きにあうくらいのレベル。なので、自らの所属を開示し、ステレオタイプを演じながらやっているのが欧米文化圏の顔だしSNSだというのが自分の認識だ。
日本のインスタ・ユーザーと同じく、そこにあるのは「他人に見せるための自分」である。


大まかにざっくりまとめすぎているとは思うが、敢えて欧米文化圏とまとめて表現すると、この文化圏は、所属する社会階級がハイかローか、収入が多いか少ないか、どこに住んでいるか、どのくらいの学歴を持っているか、などによって所属する人間のカテゴリーが変わり、カテゴリーごとに「かくあるべき」というテンプレートが決まっている社会なのだ。

日本でも、最近だと「超富裕層・富裕層・準富裕層・アッパーマス層・マス層」などという区分があるが、欧米文化圏では、これらの階級よりもさらに格差が大きい。
特に大きいのが常識の差であり、たとえばアメリカなどを見てみると、まともに学校を卒業すらしていない労働者がいたり、天動説がタブーになっている州があったりと、教育レベルに激しい格差がある。
富裕層と移民のブルーカラー労働者、一般的な科学知識が推奨される地域と福音派やアーミッシュが優勢な地域の出身者では、ほとんど話が通じないレベルになっている。

なので欧米文化圏、特にアメリカ人は、SNS上では、なるべく「話の通じる」カテゴリーが同じ人同士で繋がりたがる傾向にあるーーと、見ていて自分は感じた。
(おそらくそれが、最近のアメリカで「分断」が生み出されている原因の一つでもあるだろう)

これは日本ではあまり起こらない。
農家の人でも芭蕉の俳句の一つくらいは知っているし、天文学について語るのは首都圏のオフィスづとめをするインテリ階級だけではない。やたらと詳しい謎の一般人、などというものが突如出現するのは日本のSNSならではだと思う。有名作家や准教授のようなインテリな肩書きを持ちながら、ガルパンの話をするだけで「ただのガルパンおじさん」「アニメ好き異常中年男性」にもなれるのが日本のSNSの特性である。

なので顔写真を出す必要はなく、プロフにいちいち、ずらーっと肩書きや自分の属性を並べる必要もない。発言している内容でその人のカテゴリを判断すればいいだけだからだ。

そして日本では、ヨーロッパ系移民とアフリカ奴隷の子孫とネイティブ・アメリカンと近代の移民の間に、決して越えられない壁があるような社会ではない。「自分は日本人」という意識を持つ、外見的にもバックボーンとなる文化的にも大差のない人たちがほとんどで、出自によって就職が差別されるようなこともない。高校も大学も入試は基本的に平等な学力勝負で、ルーツや人種によって難易度が変わるわけでもない。
ルーツや人種で所属する社会カテゴリが変わるわけでもないので、交流をするのに前提として顔写真が必要になる世界ではないのだ。


これは、つまり、日本のSNSが他の文化圏よりも「フラット」で、ある意味「自由」であることを意味している。

所属する社会階級やカテゴリーに応じた振る舞いを強制されることはない。
男のくせに可愛いお人形を集めて…とは言われない。女々しい男はゲイだ。とも言われない。赤毛に人権が無いとも言われないし、トランプを支持するような発言をしたからといって無学扱いはされないし、SNSでキリストの奇跡を否定したからといって職場から放り出されたりはしない。
(もちろん、日本のSNSでも一部、こうしたステレオタイプを人に当てはめて断罪してくる人がいるのは知っているが、多数派ではない)


海外のSNSは一部しか見ていないが、日本より発言が制限され、息苦しさや、無駄にしか見えない議論(例:クレオパトラを白人が演じることについての是非)にげんなりすることが多いのは事実である。
特に近年はポリコレ的な言動制約が強く働いていて、リベラル的な発言以外は集中砲火を食らうようなコミュニティも見てきたので、まあ、なんていうか、欧米文化圏のSNSって日本人が思うより監視社会なんじゃないすかね…と思うわけですよ。

なんとなく眺めていての感触なので、このへんは誰かにきちんと、社会学ジャンルとして研究してほしいですね。