遺跡を発掘出来ないのは「残念」なことなのか。考古学における研究の目的と意義とは

移動中に読んでいた本に、「遺跡を発掘できない。残念」という考古学者の言葉が出てきて、ん…? と手が止まった。
対象はとある有名な遺跡で、いまもそこに人が住んでおり、上に街が乗っかっているので発掘できない。歴史に書かれた古代に何が起きたのか、当時の街の規模や構造がどうなっていたのかを調べることが出来ない。だから「残念」、というのだ。

多くの人は、この発言には特に違和感を覚えないと思う。考古学とは発掘の学問であり、発掘できないなら残念と思うのは当然と思うかもしれない。
だが、私は考古学とは発掘の学問ではないと思っている。発掘しか手段がなかった100年前と違い、いまは様々な研究手法があるし、過去の、すでに時を止めてしまった死んだ文化のみを扱う学問でもないと思っている。
なので、「いまだにこんなことを言う人がいるのか」と違和感を覚えた。

もし逆に、いま、その場所に街などは何もなく、発掘し放題の原野に遺跡の残骸が散らばっている状態だったら、考古学者は嬉しいのか。
極端な話をすれば、かつて栄えた国家が滅び、更地になっていくらでも調査・発掘し放題のまま放置されているのが望ましいのか。
それはその土地に人が住むほどの理由や魅力がなくなり、土地が文化とともに捨て去られた状態を意味している。また、ある一つの文化や国家の系譜が途切れ、捨てられたことも意味している。

そもそも考古学とは何のためにあるのか。人間の文化や歴史、「営み」を対象にした学問と私は解釈している。ならば、人の営みが途切れているのを目の当たりにするほうが「残念」であるべきではないのか。

かつて大きな都市の栄えたその場所に、直接の子孫ではないかもしれないが今も人が住み、連綿と人の歴史を重ねていることこそ、土地単位で見れば幸福なことだと思うのだ。


この基準で考えると、メソポタミアの、川の流れが変わってしまったことで放棄された都市国家の跡などは、私にとっては「残念」な遺跡であり、つわものどもが夢の跡、のような物悲しさを覚える。

エジプトのナイル川沿いの遺跡群のように、古代エジプトからコプト、ビザンツ、イスラム時代へと時代を経て遺物が積み重なった場所は興味深く面白いし、恵まれた土地だと思う。

好奇心任せに好き放題過去をほじくり回して宝探しをしていたのは、100年前の考古学者の話だ。今もまだその意識で活動している人がいるとすれば、時代に乗り遅れていると感じる。
単に掘ればいいのではない。いまや考古学とは掘るだけの学問ではない。
手つかずで発掘し放題の遺跡を夢見る時代は、もうとっくに終わっている。

そもそも、発掘するということは、保存されてきた現状をある意味で「壊す」ことでもある。発掘過程で失われる情報は必ずあるし、発掘してしまったら元の状態にも戻せない。
発掘とは破壊行為である、とはよく言われることだが、遺跡そのものだけではなく、場合によってはその周囲の現在の住民たちの生活を壊す可能性もある。
また、発掘してしまったがゆえに情報が失われた事例も沢山ある。たとえばツボの中に残っていた泥は本当は壺の内容物を知るための唯一の手がかりだったのに、発掘してきれいに洗浄してしまったために情報が永遠に失われてしまった…とか、鉄くずだと思って捨てた土が実は世界再呼吸の製鉄の痕跡だったかもしれない…とか。こうした事例は時代が進むごとに幾らでも出てくる。
なので、「将来のために」遺跡のすべてを発掘せず、つつましいトレンチを入れるだけで手を引くというのも現在の発掘方法の一般的な手法にになっている。

発掘は常に破壊を伴う行為であり、単に過去をほじくりだすだけでは価値は生み出せない。
それゆえに、「考古学とは何を目的として、何のためにある学問なのか」の命題に各自の答えは持って挑んでほしいと願う。
(もちろん、その答えが私と同じ意見である必要はない)




なお最近では、「過去」の遺跡と、そこに住む「現在」の住民のどちらを優先するか、という問題もある。

諸外国では、重要な遺跡から現在の住民を強制退去させ、遺跡が出てきたところを大々的にテーマパーク化、あるいは観光地化するために過去を優先して現在をないがしろにしているような場所もあるが、たいていは猛反発を食らって中途半端に終わる。ヨルダンのペトラ遺跡やペルーのインカ関連の遺跡がそういう事例だ。
これは過去と現在をぶった切る乱暴な行為だと思う。

考古学者が「発掘出来ないのは残念」と思う気持ちと、有名遺跡を抱える国の「こんなネームバリューがある遺跡なのだから最大限利用しないテはない」と考える気持ちは表裏一体だ。厳しい言い方をすれば、そこに住む人の暮らしを見ていないという意味では同じである。
金儲けが目当ての政府はまあいいとして、果たして考古学者はそれでいいのか。考古学って過去だけ見てればいい学問なんだっけ? という話である。