古代エジプトの「共同統治者」システムは「首都が複数あったから/役割分散してたから」では?
古代エジプトの王権には、「共同統治者」というシステムがある。これは中王国時代の途中から新王国時代にかけて一般化されていった、「同時期にファラオが二人いる」というシステムで、辞書などを見ると「後継書がいない空位状態を防ぐため、王の寿命が近くなった時に最後の数年をオーバーラップさせる制度」と説明されている。
しかし、「あともう数年で死にそうー」とか、普通わかんないんじゃない? という疑問は昔からあった。
そんなにうまく数年だけ被せるとか出来ないし、寿命近い状態の人から王の仕事の引き継ぎなんて出来んの? ほんの数年で?
現実的に考えると、後継者になる人は実際にはもっと前から、つまり王の称号を使いだす以前から国政のコアな部分に関わってきたんじゃないか。
というのが今回の話である。
これは新王国時代の首都機能について調べていた時にふと気がついた話だ。
このくらいなら誰か思いついて論文にしてるかなーと思ったけど、軽く検索した限り見つからなかったので、後日の検証用にメモしておきたい。
まず、新王国時代の古代エジプトの首都はテーベと説明されることが多い。テーベはナイル川上流。
南のヌビア(現在のスーダン北部)を重要視するなら、ここが首都でいい。が、中王国時代以降、エジプトに侵入してくる敵の大半はアジア方面かリビア方面から来ている。そうすると軍事拠点はナイル川下流のほうが有利。
しかし同時に首都として機能している都市が幾つかある。
この一つが古代の最初の首都とされるメンフィスの街で、ナイルの上流と下流の両方にアクセスのよい場所に位置している。
そのため、どの時代でも重要視されており、おそらく首都に匹敵する機能をずっと持ち続けていた。
実際、新王国時代の皇太子の多くはここを拠点として活動しており、アクエンアテンの兄トトメス王子はここに住んでいたし、ツタンカーメンが即位したのも、ラメセス2世の時代だとカエムワセト他多くの王子が住んでいたのもメンフィスだった。
なので実質、ここも首都になる。
さらにラメセス2世の時代には、ペル・ラメセスがアジア出兵の拠点として重要な役割を担っており、ここも首都に匹敵する機能を持っていた。王が若かった頃はこの街がテーベより重要視され、首都として扱われていたとされる。

つまり、古代エジプトの新王国時代には、「首都」を名乗ってもいい街が実質3つは同時稼働していた。
地図みて分かるとおりけっこう距離あるので、少なくともテーベとメンフィス(or 他の下流の街)の両方に統治者がいないと国が周らない。特に軍事拠点としての役割も持つ街ならば、必要があれば即時出兵の判断が出来る責任者がいないと役に立たない。ナイル下流の街からテーベまで往復一ヶ月かかるような時代だと、いちいち王の判断仰いでる暇がないからだ。
なので、共同統治システムとは、「権力を分散し、上流と下流に責任者を置くためのシステム」というのが実態ではないか。
中王国時代以降、ナイル下流への敵の侵入頻度が上がったこと、ナイルの流れが変化してもともと人が住んでいなかった地域まで集落が広がったことも関係していると思う。
詳しくは過去に書いた以下を参照してほしいのだが、ナイル川の流れは2,000年前くらいまで安定せず、古代には人が住める範囲が今より狭かった可能性がある。
新王国時代までに行政区の数が増えるのは、干拓などで少しずつ居住範囲が広がったからと考えられる。つまり、共同統治システムが採用されたのは、「国土が広がって一人じゃ全範囲見られなくなった」「ナイル川に沿って国土が南北に細長いので、一人で統治してると即応力が落ちる」という地理的な事情も大きかったのではないか。
古代エジプト、ナイル下流はある時点まで人口が少なかった? 洪水デバフの威力とは
https://55096962.seesaa.net/article/503068544.html
ナイル川の流れが安定したのはここ2,000年くらい。治水工事はしようとしても出来ない状況だったのでは
https://55096962.seesaa.net/article/516521835.html
また、古代エジプトは、紀元前1,000年ごろから始まる第三中間期において、ナイルの上流と下流に国土が分裂する。この分裂した国家、第21王朝と第22王朝の王たちは親戚同士だったともされるので、これは共同統治システムの二人の権力者が分裂した結果かもしれない。そして、テーベ側が神官国家になっていることからして、「テーベは宗教都市」「下流の街は軍事都市」という役割分担も出来ていたのではないか。
そもそも首都が1つだけでなければならないルールは、古代世界には無い。一箇所にすべての首都機能を集めなければならない理由も別にない。
古代エジプトの場合は、複数の都市で首都機能を分担した「メインの首都はあるけど、他の街も首都と呼んでいい」くらいの運用をしていた可能性はあると思う。
しかし、「あともう数年で死にそうー」とか、普通わかんないんじゃない? という疑問は昔からあった。
そんなにうまく数年だけ被せるとか出来ないし、寿命近い状態の人から王の仕事の引き継ぎなんて出来んの? ほんの数年で?
現実的に考えると、後継者になる人は実際にはもっと前から、つまり王の称号を使いだす以前から国政のコアな部分に関わってきたんじゃないか。
というのが今回の話である。
これは新王国時代の首都機能について調べていた時にふと気がついた話だ。
このくらいなら誰か思いついて論文にしてるかなーと思ったけど、軽く検索した限り見つからなかったので、後日の検証用にメモしておきたい。
まず、新王国時代の古代エジプトの首都はテーベと説明されることが多い。テーベはナイル川上流。
南のヌビア(現在のスーダン北部)を重要視するなら、ここが首都でいい。が、中王国時代以降、エジプトに侵入してくる敵の大半はアジア方面かリビア方面から来ている。そうすると軍事拠点はナイル川下流のほうが有利。
しかし同時に首都として機能している都市が幾つかある。
この一つが古代の最初の首都とされるメンフィスの街で、ナイルの上流と下流の両方にアクセスのよい場所に位置している。
そのため、どの時代でも重要視されており、おそらく首都に匹敵する機能をずっと持ち続けていた。
実際、新王国時代の皇太子の多くはここを拠点として活動しており、アクエンアテンの兄トトメス王子はここに住んでいたし、ツタンカーメンが即位したのも、ラメセス2世の時代だとカエムワセト他多くの王子が住んでいたのもメンフィスだった。
なので実質、ここも首都になる。
さらにラメセス2世の時代には、ペル・ラメセスがアジア出兵の拠点として重要な役割を担っており、ここも首都に匹敵する機能を持っていた。王が若かった頃はこの街がテーベより重要視され、首都として扱われていたとされる。
つまり、古代エジプトの新王国時代には、「首都」を名乗ってもいい街が実質3つは同時稼働していた。
地図みて分かるとおりけっこう距離あるので、少なくともテーベとメンフィス(or 他の下流の街)の両方に統治者がいないと国が周らない。特に軍事拠点としての役割も持つ街ならば、必要があれば即時出兵の判断が出来る責任者がいないと役に立たない。ナイル下流の街からテーベまで往復一ヶ月かかるような時代だと、いちいち王の判断仰いでる暇がないからだ。
なので、共同統治システムとは、「権力を分散し、上流と下流に責任者を置くためのシステム」というのが実態ではないか。
中王国時代以降、ナイル下流への敵の侵入頻度が上がったこと、ナイルの流れが変化してもともと人が住んでいなかった地域まで集落が広がったことも関係していると思う。
詳しくは過去に書いた以下を参照してほしいのだが、ナイル川の流れは2,000年前くらいまで安定せず、古代には人が住める範囲が今より狭かった可能性がある。
新王国時代までに行政区の数が増えるのは、干拓などで少しずつ居住範囲が広がったからと考えられる。つまり、共同統治システムが採用されたのは、「国土が広がって一人じゃ全範囲見られなくなった」「ナイル川に沿って国土が南北に細長いので、一人で統治してると即応力が落ちる」という地理的な事情も大きかったのではないか。
古代エジプト、ナイル下流はある時点まで人口が少なかった? 洪水デバフの威力とは
https://55096962.seesaa.net/article/503068544.html
ナイル川の流れが安定したのはここ2,000年くらい。治水工事はしようとしても出来ない状況だったのでは
https://55096962.seesaa.net/article/516521835.html
また、古代エジプトは、紀元前1,000年ごろから始まる第三中間期において、ナイルの上流と下流に国土が分裂する。この分裂した国家、第21王朝と第22王朝の王たちは親戚同士だったともされるので、これは共同統治システムの二人の権力者が分裂した結果かもしれない。そして、テーベ側が神官国家になっていることからして、「テーベは宗教都市」「下流の街は軍事都市」という役割分担も出来ていたのではないか。
そもそも首都が1つだけでなければならないルールは、古代世界には無い。一箇所にすべての首都機能を集めなければならない理由も別にない。
古代エジプトの場合は、複数の都市で首都機能を分担した「メインの首都はあるけど、他の街も首都と呼んでいい」くらいの運用をしていた可能性はあると思う。