ヘレニズム時代のエレファンティネ島(エジプト最南端の島)、どういうポジション? もしかして: 太宰府扱い

エレファンティネ島は、エジプト最南端、アスワンにあるナイル川の中の島だ。
ここには古王国時代からの遺跡があり、最後に神殿が建てられたのはローマ時代。小型ピラミッドからキリスト教の教会まで、時代の変遷とともに様々な建物を作られてきた重要な地点である。

hshh.png

が、どうもこの島、時代ごとに重要性が変化しており、南の国境線として国防の要を担っていた時代はどこかで終了したと思われる。
その部分にっいて、少し考えておきたい。

まず紀元前5世紀ごろから、この島のあたりにはユダヤ人が暮らしていたことが、エレファンティネ・パピルスという文書群から分かっている。つまり外国人の兵士を雇って国境地帯の防衛をさせていた。

そして今回、「アレクサンドロスの征服と神話」という本を読んでいたら、「アレクサンドロスは紀元前331年、逮捕された寡頭派のキオス人をエレファンティネに送った」という話が出てきた。
キオス人というのはコリントス同盟に参加していないキオス島の住民たちのことで、つまりはギリシャ文化圏に属しながら、アレクサンドロスをギリシャの盟主と認めなかった人々を指している。

参考:
Alexander's Letter to the Chians
https://www.livius.org/sources/content/alexander-s-letter-to-the-chians/

※アレクサンドロスがキオス人に命じた内容が書かれている手紙だが、ここには流刑の話は出てこない

まずどういう発想/理由でエレファンティネ島に送ったのかがよく分からないのだが、同時代のエレファンティネ島のユダヤ人が主に兵役についていたところからして、逮捕されたキオス人が軍人だったので、「僻地の駐屯基地で兵役につけ」という意味での島流しだったと解釈すべきだろうか。
というか僻地での防人任務なら太宰府的なポジションだったのかもしれない。

だとすれば、アレクサンドロスの時代においても、エレファンティネ島は「南の国境の要」だったことになる。

となると、街が重要性を失うのはそれよりもあと。
プトレマイオス朝時代にもまだ、この地域には神殿や要塞の建て増しがされている。ローマ時代の初期にもそれは変わらない。
だとすると、先に挙げた「エレファンティネ文書」が途切れる時点、すなわち、ユダヤ人兵士コミュニティが消滅する時代が、この島の位置づけの変わった時代ではないかと思われる。


で、多分そうだろうなと思ってちょっとぐぐってみたら、だいたい想定通りの内容を書いてあるサイトが見つかった。

https://paths-erc.eu/sacri-lapides-aegypti/elephantine/

4世紀初頭のキリスト教の隆盛に伴って隣のシエネの街(アスワン)に機能が統合されていったため、エレファンティネ島は役割を失って集落も縮小されていったのだそうだ。
まあ…古代の神殿やらピラミッドやら残ってる狭い島に新しく教会建てるよりは、陸地のほうにばーんと神殿建ててそっちを中心街にしたほうが早かったんだろうな…。

なお、この時代以降、地元エジプトではキリスト教が優勢になっていき、各地の神殿が閉鎖されていく。
もう少し南のフィラエ島では、エジプト人が去ったあとヌビア人が神殿を守り、5世紀半ばまでは活動の痕跡が見られるが、さすがにローマから強制閉鎖を食らって伝統は途切れる。

フィラエのイシス神殿、最後まで守ってたのはどうやらヌビア人だったらしい
https://55096962.seesaa.net/article/202201article_10.html

このあたりがアスワン地域の位置づけの変わったターニングポイントなのかな…とも思う。
古代にはテーベがエジプトの中心だったが、その中心は時代とともに下流へ移動し、地中海に面したアレキサンドリアへ、そしてローマに併合された後はエジプト自体が辺境へと転落する。

地中海を中心に抱くローマ世界から見れば、アスワンは、蛮族や化物の住まう「文明の外側」との接点でしか無くなっていたのかもしれない。