碑文から読み解くアッシリア王名表に書かれていない三人の王の存在、意図的に省かれた傍系の王たちについて
アッシリア王名表とは、アッシリアの代々の王たちの名前を記載した楔形文字の一覧のこと。原本は残されていないのだが、そこから転記したとされる部分的な「写し」のが幾つか現存している。
エジプトやメソポタミアでは古くから王名表が作られていたので、それを真似て作られたと考えられる。
現存する王名表のオリジナルが編纂されたのは、おそらく、アッシリアが大国としてエジプトやバビロン(メソポタミア)と肩を並べようとしていく時代で、紀元前1100年~1000年頃ではないかとされる。
つまり、それ以前の王たちの記載は不正確だったり、水増しされてより古くからアッシリアの歴史が続いていたかのように見せかけている可能性がある。
しかし、古い時代だけでなく新しい時代についても、都合の悪い王様は省いているとか、書き落としている王様がいるとか、なんか不備があるかもしれないという話は前からあった。
エジプトの王名表でいうところの、アクエンアテンからツタンカーメンのでの名前が王名表に一切出てこない、みたいな話である。
今回の論文は、その「書き落とされた」三名の王様の名前を掘り出してきたぞ、という内容になっている。
Three New Kings of Assyria
https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/741239
王名表から抜けていたのは、以下の3名。治世中に日食が起きたるなどの不吉な事象があった時代の王か、王位簒奪などの不都合な事実を隠すため、名前ごと消されてしまった可能性があるという。
①アッシュル・ウバリト:紀元前913~912年(?)
②ティグラト・ピレセル:紀元前763~762年
③シャルマネセル:紀元前747~745年
ただ、これらの王名、実は王名表に記載されている別の王の名前と被っている。
たとえばアッシュル・ウバリト1世は紀元前1353年~1318年、2世は前610年~609年に在位していた2名がいる。今回新しく追加されるアッシュル・ウバリトは1世と2世の間なので、定説として認められた場合は王名のナンバリングがズレることになりそう。
ティグラト・ピレセルも2世と3世の間に追加になるし、シャルマネセルは4世と5世の間に追加。なかなか厄介な問題である。
なお、これら三名の王の在位期間が正しければ、現状のアッシリア王の歴代在位年表は一部が2人分の在位を統合して記載してしまっていることになる。
というわけで、まず、この意図的に書き落とされている王立ちをどうやって見つけてきたのか、という話に移る。
研究者はまず、紀元前11世紀後半から8世紀初頭まで王の系譜が一直線すぎて怪しい、という観点から、この部分の王名表は意図的に編纂されていそうだと疑ったらしい。この部分は「父から子へ」の男系でずっと継承されているものの、確率論で言うと必ず王家に男子が生まれるとも限らないので確かに怪しい。
で、王名表に名前がなくとも、他の資料から即位していた可能性がある人、あるいは同時並行で王位を争っていた人物などを洗い出していった結果、三名出てきた、というのが今回の話に繋がっているようだ。

********
①アッシュル・ウバリト:紀元前913~912年(?)
この人物は、アシュールで発見された碑文VAT 10136の内容から、トゥクルティ・ニヌルタ1世(前1233年~1197年)よりあと、かつトゥクルティ・ニヌルタ2世(前890年~884年)より前に在位していたと考えられる。アッシュル・ウバリトという名の王がアッシュール神に捧げた銀の盃を修復した、という内容なのだが、王名表の該当期間この名前の王がいないため書記の書き間違いか何かでは、とされてきた。
しかし碑文にある以上は存在したと見なすのが素直な解釈であり、かつ、「王名表には書けないが、人々の記憶にはあるため言及せざるを得なかった」=碑文の作られたトゥクルティ・ニヌルタ2世の治世に近い時代の人物、と想定して、この年代を設定している。
また、トゥクルティ・ニヌルタ2世の前の代のアダド・ナラリ2世が王位を簒奪したため、正当から外れた王として王名表から消されたのでは、とも推測されている。
②ティグラト・ピレセル:紀元前763~762年
ニネベで発見され、大英博物館にRm75という番号で収蔵されている勅令を発したとされる王。
この時代には王位争奪戦が激しかったと考えられており、その争いの中で溢れ落ちたのが、シャムシ・アダド5世の息子で、ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)だという。
ただ、この勅令では王の印は使われているものの、ティグラト・ピレセルに王を意味する単語がつけ掘られておらず、勅令以外に実権を握った証拠が薄いため、実際には王を自称しただけですぐに他の候補者に追いやられてしまった可能性はある。
また、この王は王家の血筋ではあるものの反乱を起こして実権を握った側だろうとされており、権力を握ったのは最大で21ヶ月ほどではないかという。
即位の想定年代が勅令発行年だけになっているのは、そういうことなのだ。
なお、この反乱は日食の直後に起こったとされ、凶兆で国が混乱した隙をついて王位簒奪したのではとも考察されている。
③シャルマネセル:紀元前747~745年
1894年にオスマン帝国当局がイラクのテル・アブタで発見したアッシリア高官の石碑がソース。石碑作成当時のアッシリア王「シャルマネセル」の名は、石碑の完成直後に「ティグラト・ピレセル」と書き換えられているのだという。
だが、知られている王名表の順番では、この二つの王名が並ぶところがない。石碑時代は8世紀の様式で、かつ、その時代に存在したティグラト・ピレセルという王はティグラト・ピレセル3世しかいないので、この王の少し前に在位していたと推測されている。
また、この碑文は「宮廷伝令ベル・ハラン・ベル・ウシュル」が命じて書かせたことになっているのだが、8世紀の他の王たちの宮廷伝令の名前は判っているため、やはりティグラト・ピレセル3世の在位中(紀元前744年~紀元前727年)の直前にシャルマネセルという名前の短命な王がいたと推定するのがいちばんシンプルな解釈となる。
また、紀元前746年にはカルフで反乱が勃発しているようなのだが、名前の消されたシャルマネセルの即位していたのがまさにこの時代になり、他にも遊牧民の侵入や家臣の裏切りなど国が荒れていて王権が安定しなかった時期のようだ。
この人物はおそらくアシュル・ナラリ5世の息子で、父の突然の死によって即位したものの国が大混乱、すぐに失脚してしまい、碑文の王名も新たな支配者のために書き換えられたのだろう、という。なお、シャルマネセルの名を消したティグラト・ピレセル3世は、彼の叔父と見られるそうだ。
**********
以上、かなり読み応えのある内容の論文だったが、軽く内容をまとめておいた。
考古学的な資料から論理を積み上げて最もシンプルで無理のない解釈を採用していく、という手法は推理小説のようでとてもおもしろい。
推理小説でいうとエラリー・クィーンの系統。
というか変な味付けせずに「単純にこう解釈すれば一番シンプルにピースが当てはまる」という方針で淡々と積み重ねていく書き方は、なるほど…と納得させられるものだった。
まあ、もしこれが受け入れられたらアッシリアの王名一覧がガッツリ書き換わるし、なんなら「●世」の部分とかズレるかもしれないんで、そっち専門の方は…頑張って下さい…w
*********
アッシリアの歴史と王名表については、以下の本がお手頃。本の冒頭に今まで知られていた王名のリストが載っているので、付き合われるとこの論文で言われている内容の理解が進みます。

アッシリア全史 都市国家から世界帝国までの1400年 (中公新書) - 小林登志子
あと、淡々とした書き方ではあるけれどこちらも。

アッシリア 人類最古の帝国 (ちくま新書 1800) - 山田 重郎
********
あとオマケ、エジプトでも王名表にのってない王たちは最近判明している。
国土の分裂期に勝手に王を名乗ってた地方豪族たちの王朝が丸ごと抜けてるのである。王名表、どこまで王としてカウントするかもあるだろうし、担当者的に年代が埋まってれば平行で即位してた王は省きたかったんだろうなとも思う。
第二中間期 失われた王朝と忘れ去られた王 「アビドス王朝」セネブカイの墓発見ニュース
https://55096962.seesaa.net/article/201405article_8.html
第二中間期の王「セネブカイ」、その壮絶なる死に様が判明
https://55096962.seesaa.net/article/201502article_25.html
エジプト王は馬に乗ったか? セネブカイのニュースを検証してみる
https://55096962.seesaa.net/article/201503article_25.html
エジプトやメソポタミアでは古くから王名表が作られていたので、それを真似て作られたと考えられる。
現存する王名表のオリジナルが編纂されたのは、おそらく、アッシリアが大国としてエジプトやバビロン(メソポタミア)と肩を並べようとしていく時代で、紀元前1100年~1000年頃ではないかとされる。
つまり、それ以前の王たちの記載は不正確だったり、水増しされてより古くからアッシリアの歴史が続いていたかのように見せかけている可能性がある。
しかし、古い時代だけでなく新しい時代についても、都合の悪い王様は省いているとか、書き落としている王様がいるとか、なんか不備があるかもしれないという話は前からあった。
エジプトの王名表でいうところの、アクエンアテンからツタンカーメンのでの名前が王名表に一切出てこない、みたいな話である。
今回の論文は、その「書き落とされた」三名の王様の名前を掘り出してきたぞ、という内容になっている。
Three New Kings of Assyria
https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/741239
王名表から抜けていたのは、以下の3名。治世中に日食が起きたるなどの不吉な事象があった時代の王か、王位簒奪などの不都合な事実を隠すため、名前ごと消されてしまった可能性があるという。
①アッシュル・ウバリト:紀元前913~912年(?)
②ティグラト・ピレセル:紀元前763~762年
③シャルマネセル:紀元前747~745年
ただ、これらの王名、実は王名表に記載されている別の王の名前と被っている。
たとえばアッシュル・ウバリト1世は紀元前1353年~1318年、2世は前610年~609年に在位していた2名がいる。今回新しく追加されるアッシュル・ウバリトは1世と2世の間なので、定説として認められた場合は王名のナンバリングがズレることになりそう。
ティグラト・ピレセルも2世と3世の間に追加になるし、シャルマネセルは4世と5世の間に追加。なかなか厄介な問題である。
なお、これら三名の王の在位期間が正しければ、現状のアッシリア王の歴代在位年表は一部が2人分の在位を統合して記載してしまっていることになる。
というわけで、まず、この意図的に書き落とされている王立ちをどうやって見つけてきたのか、という話に移る。
研究者はまず、紀元前11世紀後半から8世紀初頭まで王の系譜が一直線すぎて怪しい、という観点から、この部分の王名表は意図的に編纂されていそうだと疑ったらしい。この部分は「父から子へ」の男系でずっと継承されているものの、確率論で言うと必ず王家に男子が生まれるとも限らないので確かに怪しい。
で、王名表に名前がなくとも、他の資料から即位していた可能性がある人、あるいは同時並行で王位を争っていた人物などを洗い出していった結果、三名出てきた、というのが今回の話に繋がっているようだ。
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①アッシュル・ウバリト:紀元前913~912年(?)
この人物は、アシュールで発見された碑文VAT 10136の内容から、トゥクルティ・ニヌルタ1世(前1233年~1197年)よりあと、かつトゥクルティ・ニヌルタ2世(前890年~884年)より前に在位していたと考えられる。アッシュル・ウバリトという名の王がアッシュール神に捧げた銀の盃を修復した、という内容なのだが、王名表の該当期間この名前の王がいないため書記の書き間違いか何かでは、とされてきた。
しかし碑文にある以上は存在したと見なすのが素直な解釈であり、かつ、「王名表には書けないが、人々の記憶にはあるため言及せざるを得なかった」=碑文の作られたトゥクルティ・ニヌルタ2世の治世に近い時代の人物、と想定して、この年代を設定している。
また、トゥクルティ・ニヌルタ2世の前の代のアダド・ナラリ2世が王位を簒奪したため、正当から外れた王として王名表から消されたのでは、とも推測されている。
②ティグラト・ピレセル:紀元前763~762年
ニネベで発見され、大英博物館にRm75という番号で収蔵されている勅令を発したとされる王。
この時代には王位争奪戦が激しかったと考えられており、その争いの中で溢れ落ちたのが、シャムシ・アダド5世の息子で、ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)だという。
ただ、この勅令では王の印は使われているものの、ティグラト・ピレセルに王を意味する単語がつけ掘られておらず、勅令以外に実権を握った証拠が薄いため、実際には王を自称しただけですぐに他の候補者に追いやられてしまった可能性はある。
また、この王は王家の血筋ではあるものの反乱を起こして実権を握った側だろうとされており、権力を握ったのは最大で21ヶ月ほどではないかという。
即位の想定年代が勅令発行年だけになっているのは、そういうことなのだ。
なお、この反乱は日食の直後に起こったとされ、凶兆で国が混乱した隙をついて王位簒奪したのではとも考察されている。
③シャルマネセル:紀元前747~745年
1894年にオスマン帝国当局がイラクのテル・アブタで発見したアッシリア高官の石碑がソース。石碑作成当時のアッシリア王「シャルマネセル」の名は、石碑の完成直後に「ティグラト・ピレセル」と書き換えられているのだという。
だが、知られている王名表の順番では、この二つの王名が並ぶところがない。石碑時代は8世紀の様式で、かつ、その時代に存在したティグラト・ピレセルという王はティグラト・ピレセル3世しかいないので、この王の少し前に在位していたと推測されている。
また、この碑文は「宮廷伝令ベル・ハラン・ベル・ウシュル」が命じて書かせたことになっているのだが、8世紀の他の王たちの宮廷伝令の名前は判っているため、やはりティグラト・ピレセル3世の在位中(紀元前744年~紀元前727年)の直前にシャルマネセルという名前の短命な王がいたと推定するのがいちばんシンプルな解釈となる。
また、紀元前746年にはカルフで反乱が勃発しているようなのだが、名前の消されたシャルマネセルの即位していたのがまさにこの時代になり、他にも遊牧民の侵入や家臣の裏切りなど国が荒れていて王権が安定しなかった時期のようだ。
この人物はおそらくアシュル・ナラリ5世の息子で、父の突然の死によって即位したものの国が大混乱、すぐに失脚してしまい、碑文の王名も新たな支配者のために書き換えられたのだろう、という。なお、シャルマネセルの名を消したティグラト・ピレセル3世は、彼の叔父と見られるそうだ。
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以上、かなり読み応えのある内容の論文だったが、軽く内容をまとめておいた。
考古学的な資料から論理を積み上げて最もシンプルで無理のない解釈を採用していく、という手法は推理小説のようでとてもおもしろい。
推理小説でいうとエラリー・クィーンの系統。
というか変な味付けせずに「単純にこう解釈すれば一番シンプルにピースが当てはまる」という方針で淡々と積み重ねていく書き方は、なるほど…と納得させられるものだった。
まあ、もしこれが受け入れられたらアッシリアの王名一覧がガッツリ書き換わるし、なんなら「●世」の部分とかズレるかもしれないんで、そっち専門の方は…頑張って下さい…w
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アッシリアの歴史と王名表については、以下の本がお手頃。本の冒頭に今まで知られていた王名のリストが載っているので、付き合われるとこの論文で言われている内容の理解が進みます。

アッシリア全史 都市国家から世界帝国までの1400年 (中公新書) - 小林登志子
あと、淡々とした書き方ではあるけれどこちらも。

アッシリア 人類最古の帝国 (ちくま新書 1800) - 山田 重郎
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あとオマケ、エジプトでも王名表にのってない王たちは最近判明している。
国土の分裂期に勝手に王を名乗ってた地方豪族たちの王朝が丸ごと抜けてるのである。王名表、どこまで王としてカウントするかもあるだろうし、担当者的に年代が埋まってれば平行で即位してた王は省きたかったんだろうなとも思う。
第二中間期 失われた王朝と忘れ去られた王 「アビドス王朝」セネブカイの墓発見ニュース
https://55096962.seesaa.net/article/201405article_8.html
第二中間期の王「セネブカイ」、その壮絶なる死に様が判明
https://55096962.seesaa.net/article/201502article_25.html
エジプト王は馬に乗ったか? セネブカイのニュースを検証してみる
https://55096962.seesaa.net/article/201503article_25.html