古代エジプトの王は王女を外国に嫁がせない。が、ヒッタイトは嫁がせまくる。「ヒッタイト王国の条約と政略結婚」

古代エジプトは、王女を決して外国に嫁がせない、という政策をとっていた国である。「決して」の部分は本当に「決して」であり、アマルナ文書では、バビロニアの王から王女を嫁がせて欲しいと依頼されたアメンヘテプ3世が、「古来よりエジプト王の娘は誰にも与えられたことがない」とバッサリ返答しているくらいだ。

唯一の例外とされるのが、旧約聖書に書かれているエピソードで第21王朝の王女がソロモン王に嫁いだというエピソードだが、これはエジプト側の記録では裏付けが取れておらず、実際に嫁いだのか、嫁いだとすればどの王の娘だったのかが不明だ。
時代は既に末期王朝時代なので、王家の伝統が変化していたか、異国にルーツを持つファラオだったため禁忌が薄れていた可能性のあるが、もしこの事例が史実だとしても一事例のみなので、やはり古代エジプトは「王女を外国に嫁がせる政策は取っていなかった」と見なしてよいと思う。

逆に、王女を外国に嫁がせまくる政策をしていたのがヒッタイト。
その詳細は、首都ハットゥシャから出土している粘土板の記録からうかがえる。ヒッタイトはいかに他国と「約束」したのか、その「約束」を固めるための手段として、いかに「婚姻」を利用したのか。という内容が、以下の本である。

ヒッタイト王国の条約と政略結婚: 縛りと結びの政治外交 - 山本 孟
ヒッタイト王国の条約と政略結婚: 縛りと結びの政治外交 - 山本 孟

自分は基本エジプト目線なので、ほほうエジプトとはずいぶん考え方が違うんだなあ…と思いながら読んでいた。

まず面白いなと思ったのが、ヒッタイトが他国と約束する時、「神の前で誓う」という形式を取ること。
勢力の劣る小国に対してと、対等な大国に対してで使われている用語が少し違うのだが、基本的に神の前で「誓う」ことで約束を有効化する。
メソポタミアの条約や同盟は基本的に同じ形式だ。「神の前に誓う」として約束ごとを粘土板に書きつけ、神殿に奉納したりもする。

だがエジプトでは、この形式は取られない。
特にファラオが誰かと約束する時、ファラオは自身が✨️神✨️なので、「朕が誓うと言ったらそれでよい」くらいの勢いで書かれている。
ラメセス2世の時代に結ばれたヒッタイトとエジプトの和平条約が、ヒッタイト方式の「神の前で誓う」になっているのは、この条約締結がヒッタイト主導だったか、エジプト側が最大限に譲歩した結果ではないだろうか。

また、ヒッタイトにとって王女を他国に嫁がせることは、「妻を与える」行為であり、「与える」自分たちのほうが立場が上、主導権を握っているのは自分たちなのだ、という概念をもってやっているというのも斬新だった。王女を与えて姻戚関係にすることで相手に対し主導権を握ること、一定の責務を背負わせるということ。
姻戚という関係を結ぶことによって相手を王家の一族に組み込むことは、たとえば、属国の支配者を「義理の息子」とすることで、その国に干渉する理由を得る、のようなイメージだろうか。

だが悲しいかな、エジプト側はたぶんその概念を理解していない。
王家の血筋と神の子孫であるということが権威の本体であり、エジプト側からすれば、他国から嫁いできた王女にも、その家族にも、何の権威も無いと見なしただろうからだ。

ヒッタイトの概念と言い分を見ると、なるほどヒッタイトからエジプトのラメセス2世に王女を嫁がせた時に「嫁がせる王女は正妃として扱え」という要求の意図は理解できるのだが、エジプト側が求めているのはお飾りの正妃ではない。正妃=王の宗教的儀式の随伴者として役割を果たせる人物 である。
外国出身でエジプト宗教にも疎い王妃では、その役割を十分に果たせなくてすぐに王宮から遠ざけられてしまうのは当たり前なのだ。

この結婚では、実際には、エジプトとヒッタイトの間で盛大なコミュニケーションミスが起きていたのではないかと思う。
そもそも、ラメセス2世に息子が50人以上いることを理解していたのだろうか。

ヒッタイト側は「嫁がせた娘との間に息子が出来て、その子が王位を継げればエジプトはうちの一部」くらいの能天気な考えに見えるのだが、…息子だけで50人以上だぞ…。たとえ息子が出来てたとしても、その時点で生存していただろう上位数十人の王子たちをぶっちぎって、異国出身でエジプトには何の後ろ盾もない王女が産んだ子が王位に就くのは無理だろうな…。周辺の小国ではその戦略でいけたんだろうけど…。

ヒッタイトの政略結婚の戦略は、実際にはおそらく、周辺の小国に対してしか有効ではなかったのだ。
そして、「幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」のようにはいかず、蛮族相手には結局、戦うしかなかった。そして敗北した結果、エジプトとの和平条約から100年ほどで滅亡してしまうのだ。


また、この本を読んでいてふと、ヒッタイトは王女を外国に嫁がせることしかしていないのに、なぜ例外的にエジプトに王子を送ろうとしたのか? という疑問も湧いた。

ツタンカーメンの死後、王妃アンケセナーメンがヒッタイトに「私には息子がいないので夫とするために王子を送ってほしい」と依頼した、という話である。
ヒッタイト側が困惑したのは当然で、王女を外国に嫁がせることは過去にも何度もあり得たが、王子を嫁がせようとした事例は他には無いのだ。
結局この婚姻は成立しなかったが、もし成立していたら、王女の場合と同じ形式で夫を「与えた」と記録されたのだろうか。それとも、別の書き方になったのだろうか。

(なお、アンケセナーメンではなくアクエンアテンの妻ネフェルティティとする説もあるようだが、これは考慮に値しないと思っている。アクエンアテン死亡時にネフェルティティが生存していたとしても、どう若く見積もっても年齢はアラフォーであり、新しい夫を迎えるには年齢的にキツいからだ。また、ツタンカーメンが即位しているということは、王家に他の男子がいなかったわけでもなく他国の王子を迎える必要性がない)


*****
補足として、エジプトへ嫁いだ王女たちの代表例と、ヒッタイト王女の嫁ぎ先についてを出しておく。
出典元は以下。
https://www.arskiu.net/book/pdf/1357871674.pdf

afgg.png

wfhghh.png

ヒッタイトだけではなく、メソポタミアも、王女を他国に嫁がせる婚姻政策は一般的だったと思われる。
むしろエジプトが珍しいというか、王家の血筋を神聖視していたことと、「王は神によって地上の支配権を与えられた」とする神権政治の思想ゆえの独自路線だったのかもしれない。